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2006年10月31日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか?(35)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

< 第1話 からお読みください >

第35話

エピソード4
お尻も拭けない一万円札がなぜトイレットペーパーよりもありがたいのか?(8)

 さて、ついに貨幣が登場したことで、いよいよ話は核心に近づいてきた。そろそろ、サラリーマンが潤うことのできない驚愕のメカニズムを覆っている皮を、一枚、また一枚と剥がすときが来たようである。

 では、『エピソード5』に進む前に、『エピソード4』のまとめと補足をしておこう。

 以下、かなり難しいです(^^ゞ
 興味のない方は、『エピソード5』に進んでください。

--------------------
【エピソード4のまとめ】

◆商品の交換(流通)とは、互いの「抽象的人間労働(生理的労働=労働時間)」(厳密には生産費)が等価であると判断されたときに、他方の「具体的有用労働(労働目的)」と交換することに他ならない。

 しかし、この交換では以下のような制約がある。

○偶発的な交換しか期待できない

○「抽象的人間労働」が商品の「使用価値」に内在し、かつ、その「使用価値」が目に見えるものであっても、単純に重さや長さで商品の「価値」が決まるわけではない。あくまでも、「価値」を決めるのは「抽象的人間労働の量(労働時間)」という目には見えないものである。そこで、商品の「価値」を表現するための共通の統一的な手段が必要となる

 そして、この二つの制約を取り除くために誕生したのが貨幣である。

◆貨幣は、商品の「価値」を表現できる。すなわち、貨幣は「価値」を持っている。しかし、貨幣には「使用価値(使用目的)」がない(有用物ではない)。したがって、貨幣は商品ではない。

◆貨幣の誕生によって、商品の流通は次のように変化した。

<商品> - <商品> - <商品>
           ↓
<商品> - <貨幣> - <商品>

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------------ 日記・雑感 ------------
今日は、久しぶりに林葉直子さんと食事をしました。
体調を崩していたので心配していたのですが、元気な姿を見て一安心。
お店の閉店時間になってしまったので、後ろ髪を引かれる思いでレストランを後にしました。

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2006年10月30日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか?(34)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

< 第1話 からお読みください >

第34話

エピソード4
お尻も拭けない一万円札がなぜトイレットペーパーよりもありがたいのか?(7)

 貨幣の誕生と発展の歴史はこのエッセイでは割愛するが、当初は、米のような一般的な、かつ、十分な量が常に用意されているモノ(提供量が不足してしまったら、現代で言うところのインフレが発生してしまう)が流通を仲介し、その重さによって価値を表現してきたと考えられている。

 しかし、さらなる経済社会の発展によって、「価値」だけは残され、しかし、「使用目的」を奪われた(有用物ではない)、すなわち商品とはまったく異なるモノとして貨幣が誕生した。

 そして、この貨幣の誕生によって、(1)の流通形態は(2)の流通形態へと劇的に変化を遂げたのである。

(1)<商品> - <商品> - <商品>
              ↓
(2)<商品> - <貨幣> - <商品>

 最後に、もう一度だけ繰り返す。

 「貨幣」は「商品」ではない。なぜなら、貨幣には「価値」はあるが、「使用目的」がない(有用物ではない)からだ。

 そして、この一見、何でもないような貨幣の特質こそが、前述の(1)とも(2)とも異なる新たな流通形態を生むこととなり、しかも、この資本主義社会では、その新たな流通形態によって貧富の差が生じているのである。

 だから、義務教育では「貨幣は商品ではない」ことを教えないのかもしれない。

 確かに、お尻も拭けない一万円札ではあるが、それでも、やはり一万円札はトイレットペーパーよりもありがたいことに変わりはない。なぜなら、一万円札には一万円の「価値」があるからだ。そして、私たちは、そのことを無意識に自覚し信用している。

 冒頭の話に戻るが、結局のところ、貨幣を支えているのは、この「信用」なのである。

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2006年10月27日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか?(33)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

< 第1話 からお読みください >

第33話

エピソード4
お尻も拭けない一万円札がなぜトイレットペーパーよりもありがたいのか?(6)

 そこで、昔の経済世界が必要としたのが、人々が自分の商品と他人の商品を偶発ではなく自由かつ必然的に交換できる仕組みであった。高度な商品の流通があってこそ、はじめて経済社会は発展を遂げて行く。そのためには、商品と商品を仲介する何かが必要だったのだ。

 昔の日本で考えれば、米などはその「何か」になり得るだろう。

kome.gif

 こうして、あるモノで商品の価値を表すことができれば、それを仲介にして商品の交換が可能になる。

 この図の場合、米で商品の価値を表現しているので、大根を米に換えれば、その米をいつでもいわしと交換できるようになる。大根片手にいわしを釣った人との偶発的な出会いを捜し求めて右往左往する必要はなくなるわけである。

 こうして、商品の流通は限られた部分的なものから、全社会的な一般的なものに変貌を遂げる。

 このケースでは、米は商品の交換の仲介としての役割を果たしていると同時に、その重さを調整することで、商品の価値も表現できている。

 このことは、欲しいいわしが五匹だったら、一キログラムの半分の五百グラムの米で交換できることからも明らかである。

 すなわち、この図の米は、それ自身が「商品」であると同時に、「貨幣」でもあると言うことができる。

 なお、蛇足というか、次回の話と多少かぶるが、このように流通の仲介をするモノは、次のような条件を満たしていると都合が良い。

 1.生産量(採掘量)が安定している
 → 不安定では仲介の役目を果たせないから

 2.体積に比べて重さがある
 → 綿のように大きさばかりあって軽いモノでは管理、保管、持ち運びに不便だから

 3.分配や切削ができる
 → 価値に応じて重さの調整ができるから。ちなみに、イギリスの通過が「ポンド」と呼ばれるのは、この名残りである。

 こうして考えると、貨幣が貝殻→銀→金と姿を変えてきた理由がおわかりだろう。

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2006年10月26日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか?(32)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

< 第1話 からお読みください >

第32話

エピソード4
お尻も拭けない一万円札がなぜトイレットペーパーよりもありがたいのか?(5)

 さしずめ、私たちが義務教育で教わる貨幣の役割と言ったら、次のようなものではないだろうか。

(A)商品の交換(流通)の仲介をするモノ
(B)商品の価値を共通の尺度で表現するモノ

 もちろん、(A)も(B)も、貨幣の大切な役割である。
 
 その上で・・・。

 『エピソード2』では、ブレッドとスカーフはパンとマフラーを交換していたが、実は、あの交換が成立した背景にはあの場では述べなかったある条件が隠されている。

・ブレッドはマフラーが欲しかった
・スカーフはパンが欲しかった

 当たり前だと言われそうだが、お互いがお互いの商品を欲しいと思ったから交換が成立したわけだ。

 したがって、もし、ブレッドが欲しかったのがマフラーではなく帽子だったら、彼は自分のパンと同じ価値である「一日分の生理的労働の量(一日の労働時間)」で作られた帽子を作った人を探さなければならない。

 そして、このように「交換欲求」が合致する偶発的な出会いの上でしか交換が成立しないような世界では、当然だが商品が活発に流通することはない。

 そこで、昔の経済世界が必要としたのが、人々が自分の商品と他人の商品を偶発ではなく自由かつ必然的に交換できる仕組みであった。

 高度な商品の流通があってこそ、はじめて経済社会は発展を遂げて行く。そのためには、商品と商品を仲介する何かが必要だったのだ。

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------------ 日記・雑感 ------------
今日は、財団法人、日本秘書協会に招かれて講演を行いました。
ボクなどは、「秘書」と聞くと、つい、女性を想像してしまうのですが、半数近くが男性だったのには驚きました。

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2006年10月25日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか?(31)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

< 第1話 からお読みください >

第31話

エピソード4
お尻も拭けない一万円札がなぜトイレットペーパーよりもありがたいのか?(4)

 再三、恐縮だが、確かに貨幣には価値がある。一万円札ならば一万円の価値がある(*)。また、貨幣によって売買ができる。すなわち、貨幣は「交換の対象」でもある。

 しかし、これだけではまだ商品の条件を満たしていない。貨幣を商品と呼ぶためには、貨幣に「使用目的」がなければならない。問題はここである。

 パンには「食べる」という使用目的がある。マフラーなら「身に付ける」という使用目的がある。だからこそ、パンもマフラーも商品なのである。

 では、貨幣はどうだろう。

 ちなみに、「モノを買う」というのは「使用目的」ではない。単なる「交換」である。

 紙だからメモ用紙になる? 一万円のどこにそのようなスペースがあるだろうか?

 紙だからお尻が拭ける? 私はいまだかつて、一万円札を備え付けたトイレなど見たこともない。

 そう、「使用目的」という観点から見たら、一万円札はお尻も拭けない、トイレットペーパー以下の存在なのである。

 硬貨にせよ紙幣にせよ、「使用目的」がまったくない。別の言い方をすれば「有用物」ではない。

 したがって、貨幣は商品ではない。

 いかがだろうか。当たり前とおっしゃる方もいるかもしれないが、実は、義務教育ではこのことは教えてはくれない。

--------------------
* 厳密には、貨幣が表現しているのは「価値」ではなく「価格」である。

 『エピソード3』で述べたとおり、商品の「価値」と「価格」は必ずしも一致しない。

 商品は、「価値」ではなく「交換価値」が等しいときにはじめて交換が行われる。そして、この「交換価値」は、物々交換の時代が終わり、貨幣の登場によって「価格」という概念に姿を変えた。

 すなわち、「交換価値=価格」なのである。

 しかし、読者の混乱を防ぐために、ここでは「価値」という表現を用いている。

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2006年10月24日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか?(30)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

< 第1話 からお読みください >

第30話

エピソード4
お尻も拭けない一万円札がなぜトイレットペーパーよりもありがたいのか?(3)

 私たちの生活において、今さら、貨幣のない経済行為のほうが異常であり、それほどまでに貨幣は身近な存在だ。

 ただ、身近であるがゆえにみなさんが気付いていないこともある。ここでは、その点にだけフォーカスを与えることにしよう。

 では、すっかり見ることのなくなった二千円札ではやはり気持ちが悪いので、ここからは一万円札を思い浮かべながらお読みいただきたい。

 繰り返しになるが、一万円札を持って店に行けば、一万円の「商品」が買える。また、一万円の「価値」のある商品を作って売れば、一万円がもらえる。

 すなわち、一万円札には一万円の「価値」がある。これは疑いようのない事実である。

 さて、この当たり前の事実を再確認したところで、もう一度、「商品とは何か?」を思い出していただきたい。「忘れてしまった」という人は、『エピソード2』をもう一度読み返していただいて構わない。

 「商品」とは、「価値」と「使用目的」を持ち、かつ、交換の対象となるモノ

 これこそが「商品」であった。

 となると、こんな疑問が必然的に生じる。

 「では、貨幣も商品なのではないか?」

 結論から述べよう。

 「貨幣」は「商品」ではない。

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2006年10月22日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか?(29)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

< 第1話 からお読みください >

第29話

エピソード4
お尻も拭けない一万円札がなぜトイレットペーパーよりもありがたいのか?(2)

 二千円札が五枚でも一万円は一万円である。当たり前だが、二千円札があれば二千円の買い物ができる。すなわち、二千円札には「二千円の価値」がある。

 しかし、あまりに二千円札が流通していないがために、私はその「当たり前のこと」に疑念を抱いてしまったわけだが、実は、この一見馬鹿げた私の疑念は、「貨幣とは何か?」という「貨幣論」の根本的な概念そのものなのである。

 なぜ私は、ATMが吐き出した二千円札を見て不安に駆られたのか。それは、一瞬とは言え、私が二千円札を「信用」しなかったからである。

 すなわち、こういうことである。

 貨幣の「価値」を支えているものは「信用」に過ぎない。

 言い換えれば、その「信用」を失えば、貨幣は無価値になり、単なる紙切れ同然になる。

 マルクスは、自身の経済学の中でも、貨幣の誕生の歴史からその役割の解明にいたるまで、非常に力を入れて分析を試みているが、エピソード4では、そのほとんどをざっくりとカットしたい。なぜなら、私たちの生活において、今さら、貨幣のない経済行為のほうが異常であり、それほどまでに貨幣は身近な存在であるからだ。

 ただ、身近であるがゆえにみなさんが気付いていないこともある。エピソード4では、その点にだけフォーカスを与えることにしよう。

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2006年10月20日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか?(28)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

< 第1話 からお読みください >

第28話

エピソード4
お尻も拭けない一万円札がなぜトイレットペーパーよりもありがたいのか?(1)

 その日、懐が寒くなった私は、五万円を下ろすために自宅マンション横のコンビニに設置されているATMに向かった。

 キャッシュカードを入れて暗証番号を打ち込み、「5」「万」「円」と押して「確認」ボタンを押す。その直後、私は思わずその場にへたり込みそうになった。

 確かに、金は五万円ある。「5」「万」「円」と押したのだから当然だ。しかし、一万円札は四枚しかない。残りは……。何と、二千円札が五枚ではないか! 私のあごは床にまで落ちてしまった。

「ま、まだ、この二千円札って使えるのだろうか?」

 ここ数年お目にかかっていない何とも懐かしいその模様を凝視しながら、一瞬、本気でそう思う私。

「自分の知らない間に、『二千円札はやっぱり無効』なんて法律が施行されていたりしないのだろうか……」

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------------ 日記・雑感 ------------
最近は、書籍だけでなく、PDFの販売、携帯での小説の連載と、コンテンツを発表する場も増え、その形態も多岐に渡りますが、今日、お進めのメルマガを見つけました。

『レンアイ英語の女王・ミーコの、恋と英語のA to Z(声のアドバイス付)』

紹介文には、

「彼氏がほしいな」「英語ができたらな」そんなよくばりなあなたにピッタリ。
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とありますが、「恋愛英語」というとちょっと躊躇する人でも、楽しく読みながら知らないうちに英語が身につく内容ですね。

ホームページを見ると、10、11月と2ヶ月連続で購読すると英語のセミナーに無料ご招待だそうです。

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お進めの一誌です!

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2006年10月19日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか?(27)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

< 第1話 からお読みください >

第27話

エピソード3
学校が教えてくれたあの需給曲線は嘘だったのか?(11)

<エピソード3の補足>

※本稿は、興味のない人は読み飛ばしてエピソード4に進んでください。

 アダム・スミスもマルクスも、商品の「価格」は、「生産費+(平均)利潤」に基づいていると唱えている。

 アダム・スミスは「労働価値説」論者なので、「商品の価格を決めるのはその商品に投下された労働量」であるという主張を貫く一方で、「労働者の賃金は生産費の中に含まれている。であるならば、資本家が賃金として受け取るモノ。それが利潤である」と考えた上で、「生産費+利潤=価格」であるとした(これを「自然価格」と呼ぶ)。

 しかし、この考え方では、利潤発生のメカニズムを解明しない限り、自らが主張する「労働価値説」との間に不整合が生じてしまい、結果的にアダム・スミスは「価値論」と「価格論」を両立させることはできなかった。

 一方、同じ「労働価値説」論者のマルクスも、アダム・スミス同様に「利潤は資本家にとっての賃金」と考えたが、マルクスは「労働者の労働こそが利潤を生むメカニズムである」という「剰余価値」の解明に成功し、結果として「価値論」と「価格論」の両立に成功したのである。

 「剰余価値」については、後述の(恐らく最後の)エピソードで触れたい。

 また、「労働価値説」では、商品の「価格」を決定するものは商品の「価値」、すなわち生産費である。したがって、必然的に価格決定のイニシアチブを取るのは生産者、ということなる。一方、近代経済学の価格論(ミクロ経済学)は、消費の側から「価値」を考える「限界効用論」を基礎に価格決定のメカニズムを解明しようと試みている。

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2006年10月18日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか?(26)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

< 第1話 からお読みください >

第26話

エピソード3
学校が教えてくれたあの需給曲線は嘘だったのか?(10)

 それから、念のために、最後に付け加えておきたい。

 商品の「価値」を左右するのは、それを生産するために費やした労働時間なのだから、それは労働時間が長いほど商品の「価値」は高まって当然だ。しかし、だからと言って、ダラダラと時間をかけて作業をして生産された商品が、テキパキと短時間で作業をして生産された商品よりも「価値」が高くなることは断じてない。このケースでは、両者の「価値」は同じである。

 商品の「価値」の実態として労働時間を考えるときには、当然にして労働者の熟練度や労働環境を加味する必要がある。

 熟練した労働者が四時間で作った商品と、不慣れな新人が八時間かけて作った商品の価値が同じであるように、機械を使ってオートメーション化を図っている場合と、全工程を手作りで仕上げる場合も、両者の商品の完成度に違いがなければ、たとえ手作りだろうがその価値が高くなることはない。

 この場合、手作りの会社は、商品の質を機械には真似のできないレベルのモノにするか、それができなければ機械を導入せざるを得ない。

 すなわち、商品の価値は、社会的に見て平均的かつ一般的に必要とされる労働時間によって決定するのである。

 この考え方は「労働価値説」と呼ばれ、マルクス経済学の根幹を成すとともに、マルクスの前にもアダム・スミスが同様の理論を展開していることを付け加えておこう。

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2006年10月17日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか?(25)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

< 第1話 からお読みください >

第25話

エピソード3
学校が教えてくれたあの需給曲線は嘘だったのか?(9)

 さて、では、このエピソードの最後として、これまでに述べてきたことをまとめてみよう。

・商品の「価値」と「価格」は似て非なるモノである

・生理的労働の量(労働時間)に材料費や諸経費などを加味したモノを「生産費」と呼ぶ

・商品の「価値」は「生産費」で決定する(商品の価値 = 商品の生産費)

・商品の「価格」は気候の変化といった外的要因や需給バランスによって変動するが、商品の「価値」は「生産費」を基にしている以上、基本的に一定である(他の影響は受けない)

・商品の「価格」を決める主要因は、その商品の「価値(生産費)」である(需給バランスがどうなろうと、それは単なる変化の過程であり、結局は商品は「価値」に応じて交換されている)

 いかがだろうか。このように補足して再考すれば、大学の授業で教授が言った

「商品の価値は労働時間で決まる」

と、私たちが中学や高校の授業で習う

「商品の価格は需要と供給のバランスで決まる」

は、お互いにまったく矛盾していないことがおわかりいただけることと思う。

 もっとも、この二つのフレーズがお互いに矛盾していないことと、近代経済学が教える需給曲線が正しいかどうかは、また別の問題である。そして、このエッセイでは、繰り返しになるが、

「商品の価格は、外的要因や需給バランスによって変動するが、あくまでもその商品の価値(生産費)で決まる」

という立場をとっている。

 大切なのは、「価値」と「価格」を同じものと考えてしまうと自己矛盾に陥るが、両者は別物と考えれば、それぞれの理論の整合性は見事に取れるということである。

⇒ 第26話へ

2006年10月16日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか?(24)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

< 第1話 からお読みください >

第24話

エピソード3
学校が教えてくれたあの需給曲線は嘘だったのか?(8)

graph.gif

 もちろん、近代経済学でも、価格だけで需要量や供給量が変化するとは考えていないが、いずれにせよ、あまりにシンプルな上図のグラフでは、まったく「価格決定」のメカニズムを解明する役割を果たしていないように思える。

 この点について、一応、マルクスのことばも現代風に置き換えて紹介しておこう。

 社会主義世界ならば、「パソコンが欲しい人が千人いるので千台作りなさい」と需要量に基づいた供給が可能だが、資本主義世界においては、そもそも需要と供給が一致するはずがない。価格が上昇しようが下落しようが、それは変化の過程に過ぎず、そうした変化が収束したときには、上昇と下落はお互いに相殺され、結果的に価値(生産費)に応じて交換が行われている。
 
 先のエッセイで私は、「学校で教えている以上、価格は需要と供給のバランスによって決定されるという説を否定する勇気はない」と述べたが、一つの可能性として、タイミングよく登場した近代経済学を子どもたちに教え込んで、「あくまでも価格の中心点を決めるのは価値(生産費)である=価格を決定するのは価値(生産費)である」というマルクスの説を、国を挙げて徹底的に隠蔽しているのではないか、という気さえするのもまた実感である。

 もっとも、国が隠蔽し続けている「サラリーマンが決して潤うことができない驚愕の資本主義のメカニズム」は、残念なことに(?)、このあとこのエッセイによって明らかになってしまうわけだが・・・。

⇒ 第25話へ

2006年10月13日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか?(23)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

< 第1話 からお読みください >

第23話

エピソード3
学校が教えてくれたあの需給曲線は嘘だったのか?(7)

graph.gif

 さて、ここでもう一度、上図を見て欲しい。

 では、私たちが学校で習った需給曲線とは一体何だったのか。

 ここで私は正直に白状する。学校で教えている以上、「価格は需要と供給のバランス、すなわち、両者の均衡によって決定される」という説を否定する勇気はない。近代経済学の価格論(ミクロ経済学)もその立場をとっている。

 しかし、言い訳がましいようで恐縮だが、資本主義世界でサラリーマンが潤わないそのメカニズムと、こうした価格論は、実はあまり相関関係がない。

 後述のエピソードで明らかにしていくが、サラリーマンが家も買えないそのメカニズムを解明してくれるのは、商品の「価格」ではなく、商品の「価値(生産費)」なのである。

 要するに、これ以上商品の「価格」について論じると、本稿の目的とはかけ離れてしまうので、ここでは、上図の需給曲線に対する私なりのつたない疑問を呈するに留めたい。

 私が常々疑問なのは、「本当に価格が需要量を決定する主要因なのか」ということだ。

 たとえば、ビールを考えて欲しい。それは、安ければ安いほど売れる(需要量が増加する)ことは確かだが、別に、価格は同じでも、暑ければビールの需要量は増加する。この場合、需要を決定しているのは価格ではなく気候である。

 もっと顕著な例で、映画なんかどうだろう。「面白い!」となれば、値下げなどしなくても大挙して映画館に人々が押し寄せ立ち見となる。逆に、「つまらない!」となれば、半額にしても誰も見向きもしない。この場合も価格と需要の相関関係はまったくない。

 もちろん、近代経済学でも、価格だけで需要量や供給量が変化するとは考えていないが、いずれにせよ、あまりにシンプルな上図のグラフでは、まったく「価格決定」のメカニズムを解明する役割を果たしていないように思える。

⇒ 第24話へ

2006年10月12日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか?(22)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

< 第1話 からお読みください >

第22話

エピソード3
学校が教えてくれたあの需給曲線は嘘だったのか?(6)

graph.gif

 このように、商品の「価格」は、商品の「価値」だけでは説明が付かないこともまた事実である。

 この点については、マルクスも一定の理解を示しながらも、「商品の価格は、自ずと価値(生産費)に引き寄せられていく」としている。

 要するに、需要の立場から見たら必要なのは百個なのに、さまざまな会社が千個作ってしまった場合、当然だが「価格」の下落が発生する。「価格」を下げることで、他社ではなく自社の商品を買ってもらうためだ。

 しかし、このとき、次のような状況に陥ったらどうであろうか。

 商品の価格 < 商品の価値(生産費)

 これでは、作れば作るほど会社は赤字になる。よって、そうならないように、会社は生産量を減らし、やがて「価格」は、「価値(生産費)」と一致するか、もしくはその近辺に落ち着こうとする力が働く。もちろん、「利益がマイナスの状態」、すなわち、「作れば作るほど赤字」という状態に一時的になることもあるが、こうした状態が長続きしないのは言う間でもない。

 逆に、需要に対して供給が追いつかないときには、消費者は「高くても買いたい」という気持ちになるので、「価格」は高騰し、次の状況となる。

 商品の価格 > 商品の価値(生産費)

 作れば作るほど会社は儲かるので、次々に商品が生産されるが、こうした状態もやはり長続きしないことはみなさんもおわかりだと思う。やがて、「価格」は下落を始め、結局のところ「生産費」と一致するか、もしくはその近辺に落ち着くわけである。

 こう考えると、確かに、「需要と供給のバランス」と「価格」は無関係ではない。ところが、だからと言って、「価値(生産費)」を無視して「価格」を語ることができないのもやはり事実なのである。

 想像してみていただきたい。需要と供給のバランスがどうなろうと、十万円のパソコンが百万円になることはないし、百万円の自動車が十万円になることもない。

 「価格」は、もろに需給関係という外的要因の影響を受ける。ここが「価値(生産費)」との大きな違いである。そして、この「価格」の上昇や下落といった変動の幅や、その中心点を決めているのが「価値(生産費)」なのである。

⇒ 第23話へ

2006年10月11日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか(21)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

< 第1話 からお読みください >

第21話

エピソード3
学校が教えてくれたあの需給曲線は嘘だったのか?(5)

graph.gif

 では、もう一方の「価格」について考えてみよう。

 ここにパソコンと自動車がある。パソコンの「価格」は一台、十万円なのに、自動車の「価格」は一台、百万円。この十倍の差を発生させているモノは何か?

 この差は商品の「価値」の差、すなわち「生産費」の差であることは疑いようがない。

 パソコンと自動車では、明らかに生産に必要な労働者の数や材料費が違う。このケースでは、誰がどう考えても、商品の「価値」が商品の「価格」を決定しているのだ。そして、これは非常に重要なポイントでもある。

 商品の「価格」を決定している主要因は「価値」である。

 ところが、まったく同じ生産費で製造されているパソコンでも、十万円のモノもあれば九万円のモノもある。また、同じパソコンが、半年たったら十万円から九万円になることもある。

 このように、商品の「価格」は、商品の「価値」だけでは説明が付かないこともまた事実である。

 この点については、マルクスも一定の理解を示しながらも、「商品の価格は、自ずと価値(生産費)に引き寄せられていく」としている。

 おっと、最後の一文、やはり、マルクスの言葉は難しいですね(^_^;) ということで、次回はマルクスの言わんとしていることを懇切丁寧に解説しよう。

 なお、補足だが、実はマルクスは、この時点では「価格」という表現は用いていない。その代わりに「交換価値」という表現を使用している。

 なぜなら、「価格」というのは、商品が交換される際に基準となる数値・単位であり、その数値・単位が同じであれば、交換が成立することになる。

 では、その数値・単位とは何か? お察しのとおり「通貨」である。

 実際、「100」「円」(数値・単位)の鉛筆と「100」「円」(数値・単位)の消しゴムでは問題なく交換できる。しかし、「120」「円」の鉛筆と「100」「円」の消しゴムでは交換はできない。同様に、「100」「ドル」の鉛筆と「100」「円」の消しゴムでも交換は不可能だ。

 ところが、『資本論』では、「通貨」について説明する前に商品の交換のメカニズムを解明しようとしているため、まだ「価格」という表現を用いることができない。もし用いてしまったら、それは循環技法になってしまうからである。

 もっとも、私はそんなことは一切気にしないので、「通貨」のメカニズムを解説する前に、平気で「価格」という表現を用いている。

 さて、「価格」という表現が使えないマルクス。そこで、彼は「交換価値」という用語で説明を試みている。すなわち、マルクスの言う「交換価値」と、私たちが日常使う「価格」は、まったく同じモノなのである。

 交換価値 = 価格

 以上のことを踏まえると、『エピソード2』で紹介した

「交換とは、異なる使用目的を持つ同価値の商品間においてのみ成立しうる経済行為である」

という文言を正確に経済学的に言い直すと、

「交換とは、異なる使用価値を持つ同じ交換価値(価格)の商品間においてのみ成立しうる経済行為である」

となる。

 ただし、ここで混乱してはいけないのは、抽象的人間労働(生理的労働=労働時間)が生み出すのは、商品の「価値」であって「交換価値(価格)」ではない、ということだ。

 あくまでも「交換価値」は、生理的労働が生み出した「価値」を基に決定される「価格」である。ちなみに、この点は、当のマルクスでさえ、『資本論』より前の『経済学批判』を著していた頃は、明確にはその区別がついていなかった。

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2006年10月10日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか(20)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

< 第1話 からお読みください >

第20話

エピソード3
学校が教えてくれたあの需給曲線は嘘だったのか?(4)

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 ここまで来たら、もはや「価値」の真の実態から顔をそむけることはできそうにない。「価値」と真剣に向かい合うときが来たようである。

 では、その「価値」についてさらに深く考察していくことにしよう。

 私は、『エピソード2』の最後で、次のような疑問を提示した。

 ブレッドとスカーフの生理的労働の量、すなわち「労働時間」だけを交換の基準としてしまってもいいのか? ブレッドがこねた小麦粉やスカーフの編んだマフラーの絹糸、すなわち「材料費」を無視して商品の「価値」を決めてしまっていいものだろうか?

 この点については、みなさんもご推察のとおり、商品の「価値」を考えるときに「材料費」を無視することはできない。

 それだけではない。たとえば、自動車を作るのであれば、材料費以外にも、工場の土地代、製造機器の購入代、減価償却費や水道光熱費などの諸経費がかかる。

 こうしたあらゆる経費に、『エピソード2』で紹介した生理的労働の量(労働時間)が加味されて、そのトータルが商品の「価値」になるわけだ。

 ちなみに、このトータルの費用を経済学では「生産費」と呼ぶが、以上のことから、厳密に定義すれば、商品の「価値」を決定するのものは「生産費」であることがわかる(*)。

 商品の価値 = 生産費

 もう一度繰り返すが、あくまでも商品の「価値」とは「生産費」のことである。したがって、「価値」は、このあと述べるようなさまざまな外的要因によって変動することはない。

--------------------
* 商品の「価値」の決定要因は、「抽象的人間労働(生理的労働=労働時間)」だけでなく、材料費や諸経費なども含んだ「生産費」であることを理解するのは非常に重要である。

 なぜなら、このカラクリこそが、労働者の賃金が生活費に消えてしまう資本主義のメカニズムの根幹となるからである。

 この点については、このエッセイの後半のエピソードで詳細に解説する。

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2006年10月06日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか(19)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

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第19話

エピソード3
学校が教えてくれたあの需給曲線は嘘だったのか?(3)

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 では、この矛盾を解消する作業に入りたい。

 そこでまず、『エピソード2』が導き出した次の結論をもう一度ご覧いただくことにしよう。

(A)商品の「価値」が同じならば両者を公平に交換できる。

 この(A)の結論だが、厳密にはこれは「嘘」である。と、突然こんなことを言い出すとみなさんのお叱りを受けそうだが、「嘘も方便」、まずは、(A)の結論で納得することが次へのステップになると考える。

 言うなれば、中学生のとき私たちは、「すべての数は二乗すれば正の数になる」と教わるが、高校生になったら、「数学の世界には二乗すると負の数になる虚数というモノがあります」とどんでん返しを食らうわけである。

 しかし、中学時代には一度は「すべての数は二乗すれば正の数になる」と納得しておかないと、いつまで経っても「負の数と負の数を掛け算するとどうなるのか?」が理解できない。すなわち、これは次のステップに進むための親心、必要不可欠な「嘘」なのである。

 同様に、「商品の価値」について深く考察していく過程においては、まずは(A)の結論で納得する必要があると私は考えている。だから、あえて「嘘」をついたのだ。「すべてはみなさんのため!」ということで、ここはぜひとも大目に見ていただきたい。

 それに、仮に『エピソード2』で「商品の価値」について正確な定義を提示したら、その時点で読むのが苦痛になってしまい、今、このブログを開いているあなたはいないかもしれない。

 さて、言い訳(?)はこれくらいにして、では、(A)の結論を次のように言い換えてみよう。


(A)商品の「価値」が同じならば両者を公平に交換できる。
               ↓
(B)商品の「価格」が同じならば両者を公平に交換できる。


 この(B)については、説明の必要はまったくないだろう。

 「価格」が100円の鉛筆と、「価格」が100円の消しゴムなら、公平に交換できることは言う間でもない。商品の「使用目的」も、鉛筆は書くモノ、消しゴムは消すモノと異なっているため、ちゃんとした交換理由もある。

 そうなると、問題はやはり(A)だ。なぜ、(A)では間違いなのか? 

 いや、そもそも、「価値」と「価格」は具体的に何がどう異なるのだろうか?

 ここまで来たら、もはや「価値」の真の実態から顔をそむけることはできそうにない。「価値」と真剣に向かい合うときが来たようである。

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------------ 日記・雑感 ------------
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2006年10月05日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか(18)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

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第18話

エピソード3
学校が教えてくれたあの需給曲線は嘘だったのか?(2)

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 念のために、この需給曲線について簡単に説明しておきたい。

 まず、需要曲線だが、右下がりのために誤解されがちだが、これは、需要は、X軸に沿って、右にいけばいくほど「数量」が増えることを意味している。決して、右にいくほど需要が減るわけではない。

 誰も高いモノなど買いたくはない。すなわち、需要が増える(数量が増える)ためには、価格は下がらなければならない。

 だから、需要は右下がりの曲線で表されている。

 一方の供給曲線はわかりやすいだろう。これも、需要と同様に、右にいけばいくほど「数量」が増えることを意味している。

 言う間でもないが、価格が高ければ高いほど、商品を作る会社の利益も大きくなる。そして、多くの会社が利益欲しさにその商品を作ることになる。すなわち、供給が増える(数量が増える)ためには、価格は需要の場合とは逆に今度は上がる必要があるのだ。

 だから、供給は右上がりの曲線で表されている。

 そして、その両者の交点、すなわち、需要量と供給量が均衡するところで商品の価格は決定されると、このグラフは言いたいわけだ。

 さて、ここまで読んで、もし次のことに気付いた人がいたら、これはもう脱帽である。

 『エピソード2』で私は、交換を成立させるための条件は「価値」であると述べた。しかし、需給曲線の説明で私が使っていることばは「価格」である。

 これは、私の性格が大雑把だからではない。私は、ちゃんとした理由があって「価値」ということばと「価格」ということばを使い分けている。

 なぜなら、「価値」と「価格」は、実は似て非なるモノであるからなのである。そして、この異なるモノを同じモノと勘違いしてしまうと、次のような自己矛盾に陥ってしまう。

大学生の私:
「商品の価値は労働時間で決まるのか。なるほど!」
     ↑
   <矛盾>  価値 = 価格(?)
     ↓
中学生の私:
「商品の価格は需要と供給のバランスで決まるのか。なるほど!」

 では、次回からはこの矛盾を解消する作業に入りたい。

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------------ 日記・雑感 ------------
昨日は、皇居を参観しました。
時間の都合で一般参観だったのですが、次回は、特別参観に申し込もうと思います。
それにしても、広大な敷地と緑。
ここは本当に東京駅のまん前なのかと溜息が出ました。

2006年10月04日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか(17)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

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第17話

エピソード3
学校が教えてくれたあの需給曲線は嘘だったのか?(1)

 教授は、「マルクスは、商品の交換の基準となるのは『価値(投下された生理的労働の量=労働時間)』であると唱えている」と教えてくれた。

 そして、私も、「それは、三日働いて作ったパンと、一日しか働かずに作ったマフラーは交換できないよ。そんなの不公平だ」と、教授の言うことには納得できた。

 だからこそ、『エピソード2』でみなさんにそう説明した。

 しかし、当時の私は、納得しながらも、ある折れ線グラフが頭の中に浮かんでしまい、それがどうにも気にかかってしかたがない。

 その折れ線グラフこそが、中学生のとき授業で教わった「需給曲線」であった。

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 すなわち、「商品の価格は需要と供給のバランスで決まる」という説。間違いなく、私は学校でそう習っている。恐らく、みなさんもそう習ったことと思う。

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2006年10月03日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか(16)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

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第16話

エピソード2
彼は、なぜパンとマフラーの交換を拒否したのか?(9)

 「交換とは、異なる使用目的を持つ同価値の商品間においてのみ成立しうる経済行為である」

 はれて大学生になった私は、こうして経済学の世界に記念すべき第一歩を踏み入れたのである。

 もっとも、このとき、私は二つの疑問を感じた。

 一つは、義務教育では、商品の「価値」は需要と供給のバランスで決まると教わっていたこと。要するに、教授の言うことには確かに納得できるのだが、では、中学校で学んだあの「需給曲線」は一体何だったんだろう、という疑問であった。

 もう一つは、先ほどの説明で言えば、ブレッドとスカーフの生理的労働の量だけが交換の基準となっていたが、もしかしたら、スカーフの編んだマフラーの絹糸は、ブレッドがこねた小麦粉よりもずっと高価かもしれない。こうした、「材料費」を無視して商品の「価値」を決めてしまっていいものだろうか、という疑問である。

 もし、同じ疑問を抱いた人がいたらご安心願いたい。この点については、この次のエピソード3で明らかにする。

------------ エピソード2のまとめ ------------
・労働には二面性がある。一つは、労働の「量」であり、これを「抽象的人間労働」と呼ぶ。もう一つは、労働の「質」であり、これを「具体的有用労働」と呼ぶ。

・抽象的人間労働の量は、商品の「価値」として表される(商品には、抽象的人間労働が内在している)

・具体的有用労働は、商品の「使用価値」として表される(商品には、具体的有用労働が内在している)

・商品の「価値」(投下された抽象的人間労働の量)が同じならば、両者を公平に交換することができる。しかし、この場合、商品の「使用価値」(投下された具体的有用労働)が同じであったら交換する意味がない。すなわち、使用価値が異なって、かつ、価値が同じならば、商品同士の交換が成立する

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2006年10月02日

サラリーマンの給料はなぜ生活費に消えてしまうのか?(15)

義務教育がひた隠す目からウロコの危険な経済学

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第15話

エピソード2
彼は、なぜパンとマフラーの交換を拒否したのか?(8)

 さて、こうして見てみると、エイ子さんの英語の能力とフラ子さんのフランス語の能力は等しい上に、二人が話せる外国語が異なっている。ならば、二人の能力が交換できればいいが、もちろんそれは不可能である。

 なぜなら、能力は脳内や肉体内に留まっており、外界に存在していないからである。経済学の世界では、こうしたモノは「商品」とは呼ばない。

 エイ子さんがフラ子さんのために英語で通訳してくれた。
 そのお礼に、フラ子さんはエイ子さんのためにフランス語で通訳してあげた。

 こうして、能力がアウトプットされれば、たとえそれが目にみえる形の生産物ではなくても交換は成立する。ちなみに、このような商品を、私たちは普段、「サービス」と呼んでいる。

 以上のことから、次のように言えることはご理解いただけるだろう。

 「商品」とは、「価値」と「使用目的」を持ち、かつ、交換の対象となるモノ。

 では、この資本主義経済の基礎中の基礎となる真理を学んだところで、教授が発したあのフレーズをもう一度思い起こしてみよう。

 「交換とは、異なる使用目的を持つ同価値の商品間においてのみ成立しうる経済行為である」

 いかがだろうか。ちんぷんかんぷんだったこの一文が、何か、もう頬ずりしたいくらいに可愛いものに思えないだろうか。

 はれて大学生になった私は、こうして経済学の世界に記念すべき第一歩を踏み入れたのである。

 もっとも、このとき、私は理解できた喜びだけでなく、教授の説明に二つの疑問を感じ、頭を掻きむしったことを今でも鮮明に覚えている。

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------------ 日記・雑感 ------------
今日は、日本実業出版社にて打ち合わせ。

雑誌で情報収集術に関する連載を持つことになりました。