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2007年09月14日

「篤」が「あつし」に変わるまで(44)

< 第1話 からお読みください >

番外編4

- 本と書店と車と涙 -

 木曜日

実は、1週間ほど前にボクは夢を見ました。
M書店は、自動ドアの入り口が開くと、その正面がコンピュータコーナーです。
そして、売れ筋の本は、まさしく入り口の前に平積みされています。

ボクは、「M書店の自動ドアが開いた瞬間、そこに自分の本が積まれている」
そんな夢を見たのです。

妙に生々しい夢でした。が、夢は所詮夢に過ぎなかったのです。

恩をあだで返したM書店は、すでに市内でもっとも嫌いなアウエー書店にランクダウンしていました。

その日ボクは、銀行にお金をおろしに行きます。
M書店は、銀行とボクの家の間にあります。

「あ、そうだ。ほにゃらら社のあの雑誌はもう発売されたかな?」

帰りがてら、M書店に足を運ぶことにしました。
(おいおい、もうM書店で本を買うのはやめたんじゃないの?)

いつものように駐車場に車を止めて、自動ドアの前に立ちます。

サーッと目の前の空間が開けたその瞬間・・・


夢?


いや夢じゃありません。


ボクの本が、5冊平積みされています。

夢で見た光景が、寸分の狂いなく目の前に再現されています。


Ecexlで作るVBAアプリケーション―VBAで作る販売管理システム


と、同時に、さまざまなことが一瞬にして脳裏をよぎりました。


ソフト開発から足を洗いたくて、英語の通訳で食いつないでいた時期。


そんなボクに「ソフト開発の経験でも生かして本でも書いたら。力になるよ。」と、夢のような話を持ちかけてくれた某出版社の社長の顔。


そのことばを間に受けて本を書いた後、それが単なる気分屋の「嘘」であったことに気付いて愕然とした瞬間。


書き上げた原稿を手に茫然自失の日々。


気を取り直して、自らあちこちの出版社にあたっても、企画書すら見てもらえなかった日々。


そして、最後の最後でボクの本に可能性を見出してくれたエーアイ出版の編集長のことば。

「Excelで販売管理!奇抜だけどこれは可能性ありますよ!」

3週間もの度重なる編集会議の末、ついに出版が決定したことを知らせる電話を受けたあの日。


すぐに書店を飛び出して、自分の車に乗り込みます。

嗚咽も涙も、もう自分の意思では押さえ込めません。

生まれて初めて「嬉し泣き」という感情の波に襲われました。

自分が普段本を選んでいたまさしくその場所に、数ヶ月前までごみくず同然だった原稿が本に姿を変えて積まれている。


「あきらめなくてよかった」


あの日あの瞬間は、永遠にボクの胸に刻まれ続けることでしょう。

ちなみに、ボクのデビュー作はその後増刷を重ね、その場所は半年以上その本のための特等席でした。

そして、その成功のおかげで今のボクがあるのです。


本を書く。
その本が全国の書店に並ぶ。
確かに、今のボクにはもうそれが「日常」です。
特別な感慨はありません。

しかし、それでも惰性ではなく、1冊1冊の執筆に全力投球できる情熱を与えてくれているのは、あの日あの時、車の中で流した涙なのかも知れません。

<<完>>

2007年09月12日

「篤」が「あつし」に変わるまで(43)

< 第1話 からお読みください >

番外編3

- 本と書店と車と涙 -

 水曜日

それにしても腑に落ちません。
T書店はもういいとしましょう。
所詮、ボクにとってはアウェーです。

しかし、ボクのホームグラウンドであるM書店はどうしてしまったのか!
一体、今までにボクが何冊の本を買って稼がせてやったと思っているのか!
この本棚だって、俺の金で買ったんだろう!(←完全に壊れています、ボク)
どうしてもあきらめがつきません。

そこで、水曜日の夕方に「ひょっとしたら」と思い、足を運んでみました。
まずは、お約束の平積みコーナーです。
ありません。

「フッ。ここもやっぱり本棚扱いか」

しかし、本棚にもありません。

このような書店には、無期懲役、または一億円以下の罰金ぐらい科してもらいたいものです(笑)

この時点で、ボクは完全にあきらめました。

「ふん。これからの俺のホームグラウンドはT書店さ」

⇒ 第44話へ

2007年09月06日

「篤」が「あつし」に変わるまで(42)

< 第1話 からお読みください >

番外編2

- 本と書店と車と涙 -

 火曜日 

それでもあきらめきれずに、再びオープンと同時に2つの書店に足を運びます。
やはり、どちらにもありません。

しかし!
T書店では、丁度カートに本を山積みにして、本棚に振り分けている最中でした。

しかも!
その山積みの本の中には、明らかにコンピュータ関連書と思われるものが見え隠れしています。

「よし、午後もう一度書店巡りをしてみよう」

午後2時頃でしょうか。
仕事が一段落した僕の足は、まずT書店に向かいます。
僕は、とりあえず平積みコーナーを一瞥しましたが、午前中と変わったところはありません。

半ばあきらめ気分でしたが、

「ひ、ひ、平積みがなんぼのもんじゃい!ほ、ほ、本物のツウは本棚から本を探すもんじゃい!」

と気を取りなおして(厳密には「やけくそ」)、本棚のExcelコーナーに向かうと・・・

ありました!

黄色い背表紙に青い文字でしっかりと書かれています。

『Excel95で作るVBAアプリケーション(VBAで作る販売管理システム)』

Ecexlで作るVBAアプリケーション―VBAで作る販売管理システム

たった2冊ですが、しっかりと売られています。

「大村あつし」の名もくっきりと刻まれています。

鳥肌が立ちました。

と同時に、周りの視線が妙に気になり始めました。

「ねぇー。あの人自分の本の前で立ち尽くしてるよ~。なんか、チョーみじめったらしい~みたいな~って感じ~」

ルーズソックス(古い!)の女子高生の声が聞こえて来そうです。

「ん? 待てよ? 誰も俺が『大村あつし』だなんてわかるはずないよな。何を焦ってるんだ、俺は。よし、決めた。しばらくここで、この感動にもう少し浸ろう」

1時間ほどの間に、5人もの人がその手に僕の本を取ります。
そして僕は手に汗を握ります。

「買え! 買ってくれ! 買ってくれたら代金は俺が支払おう!」

まじめな話、それくらい真剣に念を送り続けました。

ところがどっこい、パラパラと中は読むのですが、みんな本棚に返してしまいます。
しかも、元あった場所に返さないため、2冊がバラバラに離れてしまいます。
そのたびに、僕は本をきちんと並べ替えます。
はたから見たらただのバカです。

そして、5人目の人が本棚に返したときには、本気で切れそうになりました。

「なぜ? 僕の本のどこが気に入らなかったんですか?それとも、はなっから買う気はなかったんですか? だったら紛らわしいことしないでください!」

著者の横でこのような紛らわしい行為をする人には、懲役1年、または100万円以下の罰金ぐらい科してもらいたいものです(笑)

⇒ 第43話へ

2007年09月04日

「篤」が「あつし」に変わるまで(41)

< 第1話 からお読みください >

番外編1

- 本と書店と車と涙 -

これは、「篤」を「あつし」に変えた後。
デビュー作、『Excel95で作るVBAアプリケーション(VBAで作る販売管理システム)』が発売された直後の、笑いあり涙ありの4日間のドタバタ劇。
「篤があつしに変わるまで」の後日談です。

「お前、金持ちだね~。自費出版ってお金かかるんでしょう」

当時は、友人・知人に会うたびにこう尋ねられました。
しかし、どこの世界に自腹きってまでアプリの解説書を書く人がいるでしょう。
ただ、裏を返せば、自分の知り合いが本を出すということは、彼らにとっては、それほど衝撃的な出来事だったのかも知れません。

ちなみに、「篤があつしに変わるまで」で描いたとおり、もちろん自費出版ではありません。
出版社と印税契約を交わした上で書籍コードを取得して発売された本です。
でなければ、全国の書店に並ぼうはずがありません。

 月曜日

この日は、デビュー作が書店に並ぶはずの日です。
僕の住んでいた静岡県富士市には、大抵のコンピュータ書籍なら手に入る大きな書店が2つあります。

1つはT書店。
こちらは、僕の家からは若干離れているため、あまり利用することはありません。

そして、もう1つはM書店。
こちらは、もう僕のホームグラウンドとでも言うべき書店です。
基本的に、本はすべてこのM書店で購入します。

僕は、オープンの時間に合わせて、さっそく2つの書店に偵察に行きます。
まず、平積みのコーナーを念入りに探します。

「新作だから、きっと目立つように平積みされているに違いない」

しかし、どこにも僕の本は見当たりません。

「まぁ、操作解説書のような売れ筋の本じゃないから平積みはないかな」

半ば自嘲しながら、今度は本棚を隅から隅まで丁寧に探します。
しかし、どこにも見当たりません。

「うかつだった。全国発売だからと言って、富士市で発売されるとは限らないんだ。静岡市とか浜松市のような大都市じゃなければ発売されないかも知れない」

落胆しながら帰途につきます。

⇒ 第42話へ

2007年09月03日

「篤」が「あつし」に変わるまで(40)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●エーアイ出版・・・僕がデビューを果たした出版社。もちろん実在する。

Episode 40

- エピローグ -

それに、世の中には失敗しない方法が2つだけある。

1つは、「何もしない」こと。
そんな人生を歩みたければ、それはその人の勝手。

そして、もう1つは、「成功するまでやめない」こと。

人間、常に、「今が一番若い」のだ。
残りの人生の中で、今より若いときは二度と訪れない。
その若さを武器に、今後も幾多の不運を乗り越え、成功するまでやめない積極性を見失わないようにしたいと考えている。

どちらかというとネガティブかつ控えめだった「篤」が、ポジティブかつ行動的な「あつし」に変わるまでのお話。

今日も「あつし」は頑張っている。
それも当然。
今の「あつし」が、人生の中で一番若く、活力に満ちているのだから。

「え?もし、今日頑張れなかったら?」
 
- そのときはあした頑張ればいいさ -

⇒ 第41話へ

2007年08月29日

「篤」が「あつし」に変わるまで(39)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●エーアイ出版・・・僕がデビューを果たした出版社。もちろん実在する。

Episode 39

- エピローグ -

随分と長く続けてきたこの『自伝』も、そろそろ終わりに近付いてきた。

僕は、かなり昔になるが、あるサイトで「本と書店と車と涙」というエッセイを寄稿した。

ついに発売された処女作、

『Excel95で作るVBAアプリケーション(VBAで作る販売管理システム)』

このときの僕の浮かれぶりは、この「本と書店と車と涙」をお読みいただければ、おわかりいただけることと思う。

このエッセイは、後日、番外編として紹介させていただくこととして・・・

今でこそ、個人でホームページを運営したりメールマガジンを発行していたらそれが編集者の目にとまって、いきなり書籍デビュー、なんて話もあるようだが、インターネットのなかった当時は、雑誌で記事執筆を経験してから書籍デビューというレールがあった。

そう考えると、いきなり書籍デビューを果たした僕の経緯は極めて珍しいと言える。

しかも、そのデビュー作は、当時のExcel VBA人口を考えると出来過ぎ、とも言える2万部を売り上げ、7刷まで版を伸ばした。

不運の連続のように思われた半年間であったが、実は、そのすべてが土壇場の逆転劇を生む下地であった。

本当に感慨深い半年間・・・

この時に僕が学んだのは、不運や不幸を嘆き悲しむのは仕方のないことだが、絶対にやけになったり、あきらめてはいけないということだ。

「神様は、乗り越えられない試練は与えない」という。
そう、そのときは不幸だと感じても、乗り越えたときに、実はそれが幸運へのプロローグだったことに気付く。

人生、そんなことも少なくないのではないかと思う。

⇒ 第40話へ

2007年08月27日

「篤」が「あつし」に変わるまで(38)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●エーアイ出版・・・僕がデビューを果たした出版社。もちろん実在する。

Episode 38

- 篤をあつしに変えたとき -

友人は、食後のコーヒーを飲みながら、「篤」でいいじゃないか、とあくまでも本名説を主張する。
う~ん。
そこまで言うのなら・・・。

友人の言うとおり、一生で最初で最後の晴れ舞台だ。
思い切って本名にしてしまおうか。

結局、その日は結論は出なかったが、翌日書店でパソコン書籍の著者名を徹底的に調べていて、僕はある事実に気がついた。

そう!
ひらがなやカタカナの著者名が一つもないのだ!

その瞬間である。
「篤」が「あつし」に変わったのは。

「あつし」であれば、音声にしたときには本名である。
しかし、見たときには・・・
何とも字が丸くてかわいらしいではないか!
もう、頬擦りしたいくらいである。

この、漢字だらけの著者名の中に、もし「あつし」とあればきっと目立つぞ!
となれば、僕の本を読んでくれた方は、書名だけでなく、著者名も覚えてくださるかも知れない。

もしそんなことになれば、それだけでも生まれてきた甲斐があるというものだ!

この日この瞬間から、僕は「大村篤」ではなく「大村あつし」として新しい人生を歩むこととなった。

しかし、こんなに長い付き合いになろうとは・・・

今では「篤」という文字に違和感を覚えるほど「あつし」という文字に愛着を感じている自分がいる。

さて、肝心のデビュー作であるが、いよいよ発売日が近づいてきた。

ただし、それは次回のエピローグでのお話。

⇒ 第39話へ

2007年08月20日

「篤」が「あつし」に変わるまで(37)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●エーアイ出版・・・僕がデビューを果たした出版社。もちろん実在する。

Episode 37

- 篤をあつしに変えたとき -

しかし、僕にはもう1つ、親から授かった大切な贈り物、そう「本名」というものが当然ある。

このときの僕は、その後自分が本を量産するプロのライターになろうとは想像だにしていなかった。
自分の人生で最初で最後の著作である。
そう思っていた。
だからこそ、悩みに悩んだ。
さて、どうするべきか。

一度きりの思い出なのだから本名にするべきだ、と食事を口に運びながら友人は主張する。

「いや、なにかこう、ぐっとくるような、何と言うか、まぁ、こう、覚えやすくて、それでいて、丸みのあるというか柔らかみのあるというか、そんなペンネームがいいが、確かに本名も捨てがたい」

僕の主張は支離滅裂だ。

待てよ・・・.
「大村」は誰でも読める平易な漢字だし、丸みはないが少なくとも覚えにくいことはない。
それに、苗字も名前も丸かったら、かえって逆効果のような気がする。

苗字くらいは多少角張っているほうがいいだろう。
そう思った瞬間、ペンネームの苗字は「大村」に決定した。
この点には迷いはなかった。

では、名前はどうする?
本名の「篤」は、読めない字ではないが、「大村」のような覚えやすさがない。
要するに、画数が多すぎる、僕はそう思った。

それに、丸みという点でも不合格だ。
直線ばかりで、「大村」以上に威張ってるではないか。

⇒ 第38話へ

2007年08月10日

「篤」が「あつし」に変わるまで(36)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●エーアイ出版・・・僕がデビューを果たした出版社。もちろん実在する。

Episode 36

- 篤をあつしに変えたとき -

学生時代にアルバイトをしていた「すかいらーく」で、僕と友人は食事をしながら頭を悩ませていた。

『Excelマクロで作る販売管理』のゲラのチェックは終わった。

残る作業はあと2つだけ。

1つは、本のタイトルを決めること。

しかし、出版業界と接点を持つようになって初めて知ったが、技術書やビジネス書のタイトルは、基本的に出版社が決めるというのが通例であった。
つまり、この作業に関して僕は無関係である。

もう1つは・・・
そう、ペンネームである。

「ペンネーム」

何とも心地よい響き。

本を書いた人間にしか与えられない神様からの大切な贈り物。

僕の「ペンネーム」に対する思い入れは、それほど強いものであった。

⇒ 第37話へ

2007年08月06日

「篤」が「あつし」に変わるまで(35)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●エーアイ出版・・・僕がデビューを果たした出版社。もちろん実在する。

Episode 35

- 二重の幸運 -

「自分の会社にジャッキー・チェンの映画のタイトルを付けるなんて。この人『も』相当なジャッキー・チェンのファンに違いない」

その瞬間、それまでは気にも留めていなかった企画書がその人には無性に気になる存在となった。

「ジャッキー・チェンのファンがどんなことを考えたんだろう」

「ん?『Excelマクロで作る販売管理』? 普通、販売管理を作るならAccessでしょう?」

「でも待てよ。ExcelもVBAを積んで、マクロも進化しているはずだ。もし本当にそんなことが可能なら、これは画期的な本になるぞ」

「だけど・・・。可能かどうか、この企画書だけでは保証はない」

「いや。この人は『例外』だ!『素人』とはいえ、ここにすでに完成した原稿があるじゃないか!」

そう。
むかしむかし、品川出版の福島社長に騙されて原稿を完成させてしまったあの不運がこの瞬間幸運に転じたのだ。

そして、原稿を持ち込んでから3週間後、いくたびもの会議をパスしてついに僕は吉報をもらうこととなる。

「大村さん、例の企画、会議を通りました。出版させていただきます」

95年11月に原稿を完成させてから、実に7ヵ月後のことであった。

⇒ 第36話へ

2007年08月02日

「篤」が「あつし」に変わるまで(34)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●エーアイ出版・・・僕がデビューを果たした出版社。もちろん実在する。

Episode 34

- 二重の幸運 -

今から話すことは、信じがたい、しかし紛れもない事実である。
もっとも、この裏事情を知らされたのは、エーアイ出版から本が出版された後、正確には、本の売れ行きがすこぶる好調で、2冊目の執筆依頼が来たときであったが・・・

僕の持ち込んだ企画書と原稿は、1週間、編集長の机に放置されていた。
持ち込まれてすぐに「出版不可」では、あまりに僕に対して気の毒だと思ったのだろう。

補足しておくと、持ち込んだときには編集長は不在であった。
僕は、決断する立場にないアルバイトに、事情を簡単に説明して手渡してきただけである。

かと言って、エーアイ出版の長い社歴の中で、過去に著作物のない「素人」の持ち込み企画を出版したことは、編集長の記憶では一度もないそうだ。
すなわち、遅かれ早かれ僕の元には「出版不可」の連絡が入り、企画書と原稿はゴミ箱行きの運命だったわけだ。

ちなみに「出版不可」の連絡さえしてくれない出版社もいくつもあった。
そうした意味では、「検討した上での結論」という、僕が納得のいく状況を1週間という空白期間を置くことで作り上げ、その上で連絡を下さる手はずだったエーアイ出版は、非常に良心的であると今でも心の底から感謝している。

僕は、原稿を持ち込んだ日に、エーアイ出版の編集部のロッカーや壁にジャッキー・チェンのポスターが何枚も貼られていることには気付いていた。
しかし、もちろん、誰が貼ったのかまでは知る由もない。

一方、そのポスターを貼った張本人は、収穫のなかった企画会議の後で、アルバイトから渡された自分の机の上の出版する予定のない「素人」の持ち込み企画書にふと目を落とした。

「そろそろ彼には連絡を差し上げなければ気の毒だ」

しかし、その目に最初に飛び込んできたのは、

『Excelマクロで作る販売管理』

という原稿の仮題ではなく、企画書を書いた人物が経営する会社名であった。

⇒ 第35話へ

2007年07月24日

「篤」が「あつし」に変わるまで(33)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●エーアイ出版・・・僕がデビューを果たした出版社。もちろん実在する。

Episode 33

- 友人たちの反応 -

『親友』たちは、いろいろな偉人の下積み時代の話をしてくれたり、いろいろな偉人の「名言」を持ち出してくれたり・・・

ちなみに、僕が現在、さまざまな「迷言」を生み出すのを趣味としているのは、このときの体験によるところが小さくない。

それでも、2週間まったくあがらないほど僕の腰は重かった。
仕事もせずに、ロールプレーイングゲームに興ずる毎日。

ただ、さすがにゲームも飽きてきた。
また、こんな怠惰な僕を励まし続けてくれる『親友』。

重かった腰も徐々に軽くなり、朝日の中で新鮮な空気を吸い込むたびに、再び、原稿を売り込む勇気が徐々に体内に注入され、そして充満していく。

もう少しだけ頑張ってみるか・・・

そして、悔し涙を流してから約1ヵ月後。

いよいよ僕は、エーアイ出版に

『Excelマクロで作る販売管理』

と題した原稿を持ち込むことになる。

その2ヵ月後に、今度は悔し涙ではなく嬉し涙を流すことになるとも知らずに。

⇒ 第34話へ

2007年07月19日

「篤」が「あつし」に変わるまで(32)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●エーアイ出版・・・僕がデビューを果たした出版社。もちろん実在する。

Episode 32

- 友人たちの反応 -

「ひどい事言うね~。それ、なんて出版社?」

「まぁ、本なんてそう簡単に出せるもんじゃないよ。『頑張った&頑張れ会』を開いてあげるから、本業のソフト開発でまた頑張んなよ!」

僕の愚痴を聞いた『友人』の反応である。

その一方で、

「馬鹿だね~。お前、始めから騙されてたんだよ」

「お前、本気で自分が本なんて書けると思っていたわけ?」

こんな反応をする『友人』もいた。

ただでさえ高ぶっている神経を逆なでするようなコメントだ。

また、

「駄目だよ、あきらめちゃ!まだ、全部の出版社を回ったわけじゃないんでしょう? あきらめるのは、日本中の出版社を回ってからにしなよ」

「あの原稿『いけてる』よ。チャンスはまだ途絶えてないよ」

と、励ましてくれた『親友』も何人かいた。

⇒ 第33話へ

2007年07月13日

「篤」が「あつし」に変わるまで(31)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●エーアイ出版・・・僕がデビューを果たした出版社。もちろん実在する。

Episode 31

- 悔し涙 -

「いや、2~3日で結論は出ますよ。そうしたら、すぐに連絡します」

しかし、1週間待っても連絡が来ない。

業を煮やした僕が電話してみると・・・。

「すみません。あなたの企画、会議にかけるの忘れちゃいました。来週の会議にかけますから」

なんたることだ。
人間のすることだ。
忘れるのは仕方ないと思う。
しかし、物は言いようだろう。

「1回の会議では結論が出ませんでした。来週の会議でもう一度議題にあげますから」

嘘でも、このような伝え方をしてくれるのが「優しさ」ではあるまいか。

そして、信じがたい話だが、このやり取りが繰り返されること3回。
3週間以上待たされた挙句、この編集者は引き継ぎもせずにその出版社を辞職してしまった。

再度、一から別の編集者に説明を試みたが、

「うちは持ち込み企画はお断りしてますので。持ち込みで当たった試しがありませんから」

「でも、原稿は完成しているんですよ。それをお読みいただければ判断材料になるかと思うのですが・・・」

「いえいえ。『持ち込み企画』はあくまでも『持ち込み企画』。それに、こう言っては失礼ですが、完成した原稿を私が見てしまうと、ますます出版の可能性は低くなると思いますよ」

このとき、ついに僕は涙した。

原稿が完成してからすでに5ヶ月。

Excel VBAも徐々に世間の注目を集め始め、次々といろいろな書籍が世に出回り始めていた。

当然、僕の焦りも絶頂に達していた。

しかし、「コネがない」「実績がない」「どこの馬の骨かもわからない」。

この「ないないづくし」の三重苦を打破できない自分への苛立ちとあまりに無礼な編集者の対応。

子供の頃、骨折したときに痛くて泣いたことはあるが、そのとき以来の涙であろう。

また、生まれて初めての「悔し涙」であった。

そして、それまでは「本が出版されたら驚かせてやろう」とじっと自分の中にしまい込んでいた事の経緯や複雑な心境を初めていろいろな友人にを伝えることにした。

「話す」ことで、心がいくばくか軽くなると思ったのだ。

しかし、友人、正確には「友人だと思っていた知人」も含むが、彼らの反応は、それは実に様々であった。

⇒ 第32話へ

2007年07月11日

「篤」が「あつし」に変わるまで(30)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●エーアイ出版・・・僕がデビューを果たした出版社。もちろん実在する。

Episode 30

- 悔し涙 -

この物語りも、いよいよ終盤に差し掛かっている。

ご存知の方もいらっしゃると思うので結論を申し上げるが、『Excelマクロで作る販売管理』と題した僕の原稿は、最終的にはエーアイ出版より『Excel95で作るVBAアプリケーション -VBAで作る販売管理システム-』という絶妙のネーミングを頂いて、発売されることになる。

しかし、エーアイ出版にたどりつくまでに、僕は結局、門前払い同様の扱いを何回も受けることになる。

ただ、さすがに、僕の「門前払い」ストーリーも食傷気味の方が多いであろうと推察される。

そこで、1社だけ、今なお忘れることのできない「あの対応」を記すに留めたい。

-------------------
「うーん。何とも言えませんが、話しを聞く限り検討の余地はありますね。では、履歴書と企画書をFAXで送ってください」

言葉使いは丁寧だが、何ともとげとげしい話し方の某社の編集者・・・。

もっとも、何社も出版社を回ったり、また電話してみて、この程度の対応にはすっかり慣れてはいるが。

「はい。かしこまりました。それから、完成している原稿はいかがいたしましょうか?郵送いたしましょうか?」

時代は1996年の春。
まだまだE-Mailで原稿を送るなど一般化していない時代である。

「原稿?悪いけど読んでる暇はありませんね。企画書だけで結構です。それで売れる本になるかどうかわかりますから」

「はい。かしこまりました。ただ、一つだけお願いがございます。企画が通った場合はもちろんですが、落ちた場合でもご連絡をいただけますか? 結果がわかりませんと、『次のアクション』が起こせませんから」

「次のアクション」とは、言うまでもなく、別の出版社に間髪いれずに企画を持ち込むことである。かれこれ3ヶ月もこのようなやりとりをいろいろな出版社としていたため、ロスは限りなく少なくしたかった。いや、少なくしなければならなかったのだ。

「いや、2~3日で結論は出ますよ。そうしたら、すぐに連絡します」

しかし、1週間待っても連絡が来ない。

業を煮やした僕が電話してみると・・・。

⇒ 第31話へ

2007年07月09日

「篤」が「あつし」に変わるまで(29)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●山形・・・某専門学校の教師。貴重なアドバイスをくれた恩人。実在する人物だが仮名。
●東新宿出版・・・新宿にある出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 29

- マイクロソフトとの交渉 -

今にして思えば、なんとも無茶な交渉だっただろう。

マイクロソフトに出向いたボクは、Excel VBAの本を出版するためには七百五十万円が必要であること。
そして、Excelはマイクロソフトの製品なのだから、その金額を負担して欲しいとマイクロソフトに願い出た。

本来なら門前払いされても仕方のない厚顔無恥な依頼である。

しかし、マイクロソフトの対応は本当に丁寧であった。

恐らく、相当にボクが不憫だったのだろう。

そして、ある一言がマイクロソフトのその女性から告げられた。

「あの・・・。どうして原稿をコンピュータ系の出版社に売り込まないんですか? 東新宿出版の名前は私も知っていますが、どう考えてもExcelの本を出すところじゃありませんよね。それに、著者に3,000冊買い取れというのは、正直申し上げて、自費出版以上に性質(たち)が悪いですよね」

ちなみに、出版社はリスクを負わずに金銭は著者に負担させ、その代わりに、書籍コードを取得して流通に乗せることだけは一応やってくれる。

この悪名高き手法は、現在は、「共同出版」と名を変えて、ますます多くの方が犠牲になっている。

コンピュータ系の出版社に直接売り込む・・・
考えてもみなかった。
しかし、もしそれが可能であれば・・・
僕の原稿も俄然息を吹き返す。

僕は、何たる遠回りをしてきたことか!
そうか!
直接、コンピュータ系の出版社に話を持ち込めばよかったのか!

そうとなれば、話は早い。
再度売り込みだ!

そのとき、興奮を隠せない僕に、マイクロソフトはコンピュータ系出版社のリストをくれた。
まだインターネットが普及していなかった時代。
本当に、どれほどこのリストに助けられたことか。

僕は、11年経った今でも、彼女の顔も名前も克明に記憶している。

今度こそ何とかなる!

しかし、どこの馬の骨ともわからぬ素人が書いたものを出版してくれる。
果たしてそんな出版社があるとみなさんは思うだろうか。
そう、お察しのとおり、答えは「ない」である。

しかし、それでも僕は、信じがたい幸運を味方につけて、この「ない」を「ある」に転換させることに成功することになるのだが、それはまた次のお話。

⇒ 第30話へ

2007年07月06日

「篤」が「あつし」に変わるまで(28)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●山形・・・某専門学校の教師。貴重なアドバイスをくれた恩人。実在する人物だが仮名。
●東新宿出版・・・新宿にある出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 28

- マイクロソフトとの交渉 -

電話の主は山形さんだった。

僕は、それはそれは多くの専門学校に相談を持ちかけたのだが、すべてがすべて、僕に邪険に接したわけではなかった。
中には、親身になって話を聞いてくれるところもあった。
某専門学校の山形さんもその一人。

「昨日、書店で本を探していたときに思い付いたことがあるんです。大村さんの本を一番出版したいのは、もちろん他ならぬ大村さんですがExcel VBAの本が発売されたら、大村さん同様に喜ぶところがほかにもあると思いませんか?」

「私同様に喜ぶところですか? さぁ、皆目見当がつきませんが・・・」

「じゃあ、ずばり言いましょう。マイクロソフトですよ」

「マイクロソフト!?」

確かに、Excelはマイクロソフトの製品だ!

ちなみに、ご存じない方に説明すると、96年当時は、まだまだExcelのシェアはそれほど高くなく、Lotus1-2-3という表計算ソフトを使っている人が多数いた時代である。

Excel VBAの本が発売されるということは、ある意味、マイクロソフトの製品を勝手に宣伝してあげているに等しい行為だ。

それなら、3,000冊の購入代金、七百五十万円をマイクロソフトに負担してもらうことも可能ではないか。
そうなれば、東新宿出版から本を出すことも自動的に再び可能な話となる。

そうか。
探すべきだったのは本を買ってくれるところではなく、それが出版されれば僕同様に喜び、そして、ある意味、一番得をするところだったんだ。

よし、攻めてみよう!
マイクロソフトを!

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2007年07月04日

「篤」が「あつし」に変わるまで(27)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●青森・・・東新宿出版の編集長。実在する人物だが仮名。
●東新宿出版・・・新宿にある出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 27

- ジ・エンド -

「成功する秘訣?それは成功するまでやめないことだ」

僕の座右の銘であるが、今回ばかりはもう万策尽き果てた。
これ以上何をどうしろというのだ。

東新宿出版には、「出版断念」の電話を入れよう。
そして、また開発の日々に戻ろう。
そう、この数ヶ月のことは何もなかったことにすればいい。
そして、また一から本業の開発で頑張ればいい。
ただそれだけのこと。

「そうですか。断念なさいますか」

「はい。とても3,000冊売りさばくなど無理な話です。心当たりをどれほどあたっても、そんな販売ルートは見つかりません」

もう終わった話である。
僕は、淡々と出版断念の意思を青森編集長に電話で伝えて受話器を置いた。

その翌日。
さぁ、今日からはまた開発で頑張ろう。
正直なところ、心機一転とはいかないが・・・
そう。
まだ、心のどこかで引きずっている。
かといって、いつまでも固執しているわけにもいかない。

朝食を終えて、その日の空とは違ううす曇りのような気持ちのままパソコンの電源を入れたとき、電話が鳴った。

今にして思えば・・・それは、運命の鐘の音だった。

⇒ 第28話へ

2007年06月28日

「篤」が「あつし」に変わるまで(26)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●青森・・・東新宿出版の編集長。実在する人物だが仮名。
●東新宿出版・・・新宿にある出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 26

- ジ・エンド -

最初に僕が目をつけたのはコンピュータ系の専門学校だった。

1つの学校で200冊購入してもらうとして・・・
15の学校で僕の本を教材として使用してくれれば、ちょうど3,000冊だ。

そんな営業が可能かどうか皆目見当がつかないが、とにかくやるしかない。

まず、最初に、静岡県内では非常に有名な専門学校に電話を入れてみる。
もちろんコネクションなどあるはずもないが、その学校が万が一僕の本を教材にしてくれれば「はく」がつくというものだ。
後は、その「はく」を利用して、次から次へといろいろな専門学校に営業をかける。
これが、僕の考えついた「3,000冊売りさばき」計画であったが・・・

みなさんご想像のとおり、結果は散々。

このとき僕は、生まれて初めて「門前払い」なるものを経験した。

とにかく、会ってすらもらえないのだ。

そうそう、これは余談だが、その数ヵ月後に僕の本が「正式なルート」で無事出版された後、その学校でその本がVBAクラスのテキストとなったことを僕は素直に喜べばいいのだろうか。
しかも、講師の依頼付きで・・・
今なお複雑な心境である。

いずれにしても、最大手の専門学校は見事に玉砕。
その後は方針を転換して、多少小さ目の所から攻めてみた。
もちろん、何度も「門前払い」を経験した。

真剣に話を聞いてくださる先生もいらっしゃったが何と言っても、当時はVBAのクラスがある専門学校はほとんどなく結果は全滅であった。

と同時に、もう1つの候補であるパソコンスクールも僕の中からは選択肢としては完全に消えていた。
どこを調べても、「VBAコース」を設置しているスクールなど1つもなかったためである。

今となっては隔世の感もあるが、1996年当時は、VBAは所詮その程度の扱いだったのだ。

そして、僕はついに独りつぶやいた。

「終わった・・・。ジ・エンドだ・・・」

⇒ 第27話へ

2007年06月21日

「篤」が「あつし」に変わるまで(25)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●品川出版(株)・・・在京の出版社。実在する会社だが仮名。
●秋田・・・ジャーナリスト。実在する人物だが仮名。
●青森・・・東新宿出版の編集長。実在する人物だが仮名。
●東新宿出版・・・新宿にある出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 25

- 3,000冊を自腹購入!? -

「心あたり」などあるはずがない。
あったら、誰も好き好んでこんな苦労を背負い込むはずもない。
しかし、ここで3,000冊を売りさばけるルートを見つけなければ今度という今度は、完全にジ・エンドだ。

さて、どこに声をかける?
専門学校か?
パソコンスクールか?
それとも、日本中の書店を回って、本を置かせてもらおうか?

ちなみに、ご存じない方に説明すると、書籍というのは基本的に「委託販売」である。
書店は、通常の商品のように、書籍を仕入れてそれを販売しているわけではない。
書籍自体は無料で仕入れて、それを店頭に並べ、売れたら、その定価から自分たちの取り分を差し引いて委託先にお金を払う。
そして、それが出版社の売上や著者の印税となる。
逆に、売れなければ返本する。

かなり簡略化しているが、書籍とはそのような特殊な商品であり、書店とは、乱暴な言い方をすれば、書籍を消費者に売るというよりも、書籍を置くスペースを卸し(出版社)に棚貸ししている、極めて特殊な店舗である。

当時の無知な僕は、そんな仕組みすら知らずに、書店を一店一店回って、本を売りさばこうとすら考えていた。
本当に無知とは恐ろしい・・・

家路に向かう新幹線の中で、絶望の崖っぷちに立たされながらも、無知な僕は、まだ悪あがきをしていた。

⇒ 第26話へ

2007年06月20日

「篤」が「あつし」に変わるまで(24)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●品川出版(株)・・・在京の出版社。実在する会社だが仮名。
●秋田・・・ジャーナリスト。実在する人物だが仮名。
●青森・・・東新宿出版の編集長。実在する人物だが仮名。
●東新宿出版・・・新宿にある出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 24

- 3,000冊を自腹購入!? -

僕の履歴書と本の企画書を読み終えた東新宿出版の青森編集長は「これが完成品ですか・・・」と原稿に目を落とした。
そして、僕が「はい、そうです」と答えるよりも早く信じがたい条件付きで出版を確約してくれた。

「5,000冊刷りましょう。その代わり、そのうち3,000冊は大村さんが購入してください」

「え!?」

「2,000冊は、うちが店頭で売りさばきます。ただ、最低3,000冊売れる保証がなければ、この企画に乗るのは少しリスクが大きすぎますから」

ちょ、ちょっと待ってよ。
定価が2,500円として・・・
3,000冊で・・・7,500,000円!?

反射的に暗算を終えた僕の頭が、悲鳴をあげろと命令を下す。

「7,500,000円じゃないですか!私にその金額を負担しろとおっしゃるんですか!それでは、自費出版と変わらないじゃないですか!」

「いえいえ、違います。きちんと東新宿出版として出版します。当然、書籍コードも取得して、全国の書店に並べます。それに、もちろん大村さんが個人で3,000冊所有していても仕方ありません。2,000冊はうちが売りますので、3,000冊を売りさばけるルートをご自分で開拓してください、ということです」

よほどの馬鹿でない限り、この時点で諦めるであろう。
しかし、僕はその「よほどの馬鹿」であったようだ。

「わかりました。すみませんが、1ヶ月お時間をいただけますか。心あたりを徹底的にあたってみます」

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2007年06月12日

「篤」が「あつし」に変わるまで(23)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●秋田・・・ジャーナリスト。実在する人物だが仮名。
●青森・・・東新宿出版の編集長。実在する人物だが仮名。
●東新宿出版・・・新宿にある出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 23

- 秋田さんの粋なはからい -

健康書しか出さない出版社ではあるが、品川出版とは違い、明らかに本を実際に出版している出版社である。
書店で、その出版社の書籍を手に取ったことのある僕の記憶と体験が、それだけは証明している。

しかも、お相手してくださるのは編集長・・・

これは、ひょっとすると・・・

数分前まで暗かった気持ちにもう光が射している。
何とも単純な性格。

本来ならば、明日といわずに今すぐにでも茅場町から新宿に移動したいくらいだったが、青森編集長に会う前にしなければならないことがある。
それは、本の企画書と自分の履歴書作りだ。

いくら何でも、いきなり300ページもの原稿を読んではくれまい。
僕は、福島社長の「売り込み」が失敗した最大の原因は、本の企画書ではなく原稿を持ち込んでいたためだと真剣に考えていた。

それに、どこの馬の骨とも分からない人間にやはり本は書かせてはくれないだろう。

そうなると、やはり履歴書だ。

僕は、急いで静岡県富士市の自宅に戻ると、早速本の企画書と履歴書を作り、翌日原稿と共にそれらを携えて、再度東京に、今度は新宿に向かっていた。

⇒ 第24話へ

2007年06月09日

「篤」が「あつし」に変わるまで(22)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●秋田・・・ジャーナリスト。実在する人物だが仮名。
●青森・・・東新宿出版の編集長。実在する人物だが仮名。
●東新宿出版・・・新宿にある出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 22

- 秋田さんの粋なはからい -

ジャーナリストの秋田さんは、自分が懇意にしている東新宿出版の青森編集長を快く紹介してくれた。
東新宿出版・・・
決して派手ではないが、僕もその名前は確かに聞いたことがある。
でも、その出版社が出す本って、『あなたにも忍び寄っている成人病』みたいな、健康書ばかりという印象だった。
東新宿出版がコンピュータ書は出さないだろう。

やはり、悪い予感が当たったな。

そう思いながら、僕は秋田さんと電話の向こうの青森編集長の会話を聞いていた。

「青森さん? 秋田ですが」
「えー、そうなんです。僕はパソコンはまったくわからないんですが、すでに原稿が完成しているんですよ」
「僕も今日初対面ですが、非常に熱心な好青年ですよ。なんとかならないものですかね」
「え?早速、明日時間を割いてくださる?ありがとうございます。すぐに伝えておきます」

そう言って受話器を置いた秋田さんは、僕に向かってこう言った。

「大村さん、明日、東新宿出版の青森編集長にお会いになってはいかがですか?」

なんかよくわからないが、ちょっと凄いことになってきた。

完全に風向きが変わってきた。

そんな気持ちがこみ上げてきて、自分がみるみるうちに興奮していくのがわかる。

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2007年05月09日

「篤」が「あつし」に変わるまで(21)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●宮城社長・・・私が経営していた会社の主要取引先の社長。実在する人物だが仮名。
●福島一郎・・・品川出版(株)の社長。実在する人物だが仮名。
●秋田・・・ジャーナリスト。実在する人物だが仮名。

Episode 21

- ジャーナリスト、秋田さん -

ジャーナリスト・・・
正直、気乗りはしなかった。
もう済んだ話である。
ジャーナリストに相談して、どうこうなる話とも思えない。
それに、また同じような惨めな思いはもうしたくない。

しかし、事のほか宮城社長は熱心であった。
福島社長を紹介した責任のようなものを感じているのかもしれない。

そして、その2日後に、僕はそのジャーナリスト、秋田さんに会うために、東京は茅場町に出向くこととなる。
とても「期待に胸を膨らませて」、という心情ではなかった。
宮城社長の紹介ということで、むしろ「仕方なく」という心情だった。

東京までの電車賃がもったいない。
こんな時間があったら、水泡に帰してしまったこの数ヶ月を取り戻すべく、早く仕事に専念したい。

そう思うのも無理からぬ話だろう。

だって、秋田さんは、「ライター」ではなく「ジャーナリスト」である。

しかも医療問題に熱心なジャーナリスト。

もちろんこれは後から知ったことだが、秋田さんはパソコンはおろか、ワープロさえ触ったことがない御仁だった。

そのようなジャーナリストに相談して、この現状が打開できるとはどうしても思えない。

東京へ向かう新幹線の中の僕の頭の中の悲観的な独り言。

そして、秋田さんとの面会。
今から思えば幸運。

しかし、そのときには「皮肉なことに」、秋田さんと出会うことによって、僕は再び過酷な運命にもてあそばれ始めることとなる。

そう、福島さんのときとは比較にならないほどの、僕の七転八倒の日々がまさしく始まろうとしていたわけだが、それはまたのお話。

⇒ 第22話へ

2007年04月29日

「篤」が「あつし」に変わるまで(20)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・品川出版(株)の社長。実在する人物だが仮名。
●品川出版(株)・・・在京の出版社。実在する会社だが仮名。
●宮城社長・・・私が経営していた会社の主要取引先の社長。実在する人物だが仮名。
●秋田・・・ジャーナリスト。実在する人物だが仮名。

Episode 20

- ジャーナリスト、秋田さん -

本になるはずの原稿が、ただの紙くずになってしまった。
僕がその後、しばらく放心の日々を過ごしたのは言うまでもない。
信じていただけに、その分落胆もまた大きなものだった。

しかし、いつまでもくよくよしていても仕方がない。
早く気持ちの整理をつけなければ。
早くこの無念をふっ切らなければ。

そして僕は、事の顛末を、僕が福島社長を知るきっかけとなった宮城社長にだけは報告しておこう。
そう考えた。

その報告で「けじめ」をつけて・・・

悲しいが、また開発の日々に戻ることにしよう。

「宮城社長、結局駄目でした、例の本の話」

「え?駄目だったの」

「はい。300ページ書いた原稿もパーです。でも、もう気持ちの整理もつきましたし・・・」

僕は何を言ってるんだ。

「気持ちの整理がついた」じゃなくて、「気持ちを整理する」ために、今僕はここにいるんだろう?

「うーん。パソコンのことは私はよくわからないけど、世の中『Windows95』『Windows95』って大騒ぎじゃない。何とかならないものかな・・・」

「・・・」

「あ、そうだ。私の知り合いに一人、ジャーナリストがいるよ。彼に相談してみよう」

⇒ 第21話へ

2007年04月26日

「篤」が「あつし」に変わるまで(19)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・品川出版(株)の社長。実在する人物だが仮名。
●品川出版(株)・・・在京の出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 19

- 福島社長との最後の会話 -

「この原稿を読んでください」

そんな営業で本が出版できるわけがない。

「福島社長。お手数ですが、原稿の内容をコンパクトにまとめた企画書と私のプロフィールをすぐに作ってお送りしますので、もう一度アタックしてみていただけますか」

「いや、それはできません。頂いた30万円分の営業はもうしましたので、もう私の仕事はこれでおしまいです。それに、先ほども申し上げましたが、3社回って駄目なものは駄目。潔くあきらめてください」

30万円で3社。
成功しようがしなかろうが1社10万円。
ぼろい商売だ・・・。
これじゃ・・・、詐欺だ・・・。

脳天をハンマーで殴られたような衝撃、とはまさしくこのようなショック状態を指して言うものだろう。
僕は、このとき自分が八方ふさがりの状況に追い込まれたことを痛感した。

終わった。
すべてが終わった。
この数ヶ月の努力も、自分の本が出版されるというささやかな夢も、すべてが砕け散った。

僕は、放心状態のまま受話器を置いた。

この日の電話が、福島社長との最後の会話となった。

⇒ 第20話へ

2007年04月21日

「篤」が「あつし」に変わるまで(18)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・品川出版(株)の社長。実在する人物だが仮名。
●品川出版(株)・・・在京の出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 18

- 福島社長との最後の会話 -

前回、私は、「神にもすがる気持ちで福島社長からの報告を待つ日々を送ることになる」と書いた。

「日々」
複数形である。

したがって、この表現自体は誤りではないが、社会通念上「日々」といったら、1ヶ月とか1年間ぐらいのスパンを指すものと思われる。
しかし、福島社長からは3日後に連絡が来た。

結果は「全滅」。
どこの出版社も僕の原稿を本にはしてくれない、ということだ。

念のために、どこの出版社に僕の原稿を持ち込んでくれたのか聞いてみたが、挙がった名前は3社。

1社は、誰でも知っている大手出版社だが、少年漫画の週刊誌を手がけている、どう考えてもコンピュータの書籍を出版するとは思えない出版社。

あとの2社にいたっては、聞いたこともない出版社であった。

「ひょっとして、まさかこれで終わりじゃありませんよね。まだ、他の出版社にも営業していただけるんですよね」

「いえ、これでおしまいです。私の経験では、3社回って駄目な場合、どうやっても本にはなりませんよ」

そんな馬鹿な・・・。
僕の本を出版してくれるんじゃなかったのか・・・。
3社回ったって言うが、どのような営業をしたのか・・・。

待てよ。
考えてみると、福島社長には企画書は渡していないはずだ。

ひょっとすると、膨大な僕の原稿を持って、

「この原稿を読んでください」

そんな営業をしたのではないか・・・

いくら何でもそれはない。
素人考えだが、まずは企画書なり、その原稿を書いた人物のプロフィールを紹介するのが「売り込み」というものではないのか・・・。

⇒ 第19話へ

2007年04月20日

「篤」が「あつし」に変わるまで(17)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・品川出版(株)の社長。実在する人物だが仮名。
●品川出版(株)・・・在京の出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 17

- 品川出版の謎 -

ところが、その30ページが未完成パートであることを知った福島社長は、興味のない仕事を先延ばしにする、格好の理由を手に入れたというわけだ。
そして、なるだけ長期間、僕からの連絡という面倒な束縛から逃れるために、

「一層のこと、本全体を完成させてよ」
「時間をかけてもいいから、じっくりといいものを書いてよ」
「いや、もうテストはパスしたと思ってください。本が完成すれば、それで合格!」

なんて、調子のいいことを言ったのだ。

いや、そう言えば、僕が執筆をあきらめるかもしれない。
そんな期待も秘められていたに違いない。

しかし僕はあきらめなかった。
そのことばを間に受けて、執筆を続けた僕のことを、福島社長は、さぞ「何とも無知な男」「何とも勘の鈍い男」と恨めしがったに違いない。

ただ、いずれにせよ原稿は完成してしまったわけだ。
こうなると、福島社長は、嫌でも「動かざるを得ない」。
そう、その日を境に、30万円という依頼費を前払いで受け取った福島社長の出版社めぐりが始まることとなったわけだ。

そこまでの事情をすべて飲み込んだ僕は、「武士に二言はない」ではないが「本を出版する」と言った福島社長のことばと、30万円という大金を前渡した事実だけを胸に、一転、神にもすがる気持ちで彼からの報告を待つ日々を送ることになる。

さて、物語りはいよいよ第二幕にさしかかる。

⇒ 第18話へ

2007年04月16日

「篤」が「あつし」に変わるまで(16)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・品川出版(株)の社長。実在する人物だが仮名。
●品川出版(株)・・・在京の出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 16

- 品川出版の謎 -

「品川出版」

そう聞いて、僕はその会社が出版社であることを信じて疑わなかった。

いや、確かに「品川出版」は「出版社」であった。
しかし、本など一度も出版したことのない出版社であった。

後から聞いた話だが、「出版社」の中でも、実際に本を出版できる出版社はほんの一握り。
それ以外の「出版社」は、編集の下請けをしたり、また、面白い企画を「本を出版できる出版社」に売り込むことを生業としているらしい。
このような会社や個人は、一部の人達からは「ブローカー」と揶揄されることもある。
これも後から知った話だ。

確かに、銀行ではあるまいし、社名に「○○出版」と付けてはいけない法律などない。
それに、植物の「あすなろ」ではないが、どの「出版社」も、いずれは自分たちも本を出版したいとの希望から「○○出版」と名乗るわけだから、このこと自体を責めることはできないわけだ。

しかし、品川出版は社長とアルバイト一人という会社。
責めるべきは、いくら出版業界とは無縁の人生を送ってきたとはいえ、この規模の会社がそうやすやすと本を出版できるはずがないことに気付かなかった僕の無知であろう。

では、福島社長は、初めから自社で僕の本を出版する気はなかったのか。
もしなかったとすれば、これは「お調子者」では済まされまい。
やはり「詐欺」と言われても仕方ないと思うが、どうやら、初めて僕の構想を聞かされたときには、

「これでうちも『あすなろ』になれるかも知れない・・・」

そう、自社で出版する腹づもりだったらしい。

しかし、すぐに気が変わった。
僕の原稿には興味がなくなった。

そう考えれば、初めて出会ったその1週間後に僕が30ページを書き上げたことを知らされたときに、あれほど迷惑がったことにも納得がいく。

しかし、たった1週間で気が変わってしまうとは・・・。

何ともはや、福島社長の「お調子者」の本領発揮といったところか。

⇒ 第17話へ

2007年04月10日

「篤」が「あつし」に変わるまで(15)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・品川出版(株)の社長。実在する人物だが仮名。
●品川出版(株)・・・在京の出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 15

- 意味不明な30万円の支払請求 -

「え!30万円!?」

「はい、そうです。ただ、これは前受け金ではありませんので、成功しても成果報酬を別途いただく、ということはありませんのでご安心ください」

「ちょ、ちょっと待ってください。おっしゃる意味がさっぱりわかりません。これって自費出版なんですか」

「いえいえ、まさか。たった30万円で自費出版はできませんよ、ははは。自費で出すと、最低でもその10倍、300万円はかかりますよ。もちろん、しかるべきところから、しかるべき形で出版されると思います。当然、大村さんの元には印税も入りますよ。無事出版されればですが」

しかるべきところ?
何を言ってるんだ、この人?
品川出版が出版してくるんだろう?

無事出版されれば?
原稿が完成すれば出版してくれるんじゃなかったのか?

実は、僕はこの後のやり取りを正確には記憶していない。
80%の落胆と20%の混乱の中で、かなり取り乱していたことは想像に難くないが・・・。

そして、訳もわからぬまま30万円を支払うことには同意し、翌日には指定の口座にとりあえず振り込みを済ませたのであった。

さて、ここまで連載をお読みの方は、僕が詐欺にでもあったかとお思いだろう。
もちろん、詐欺まがいであることは間違いないが、厳密には詐欺ではない。
僕の無知と福島社長の「お調子者」な性格が巻き起こした「悲劇」と言った方が正確だろう。

そう、やはりそう簡単に本など出版できるはずは、最初からなかったのだ。

一体、福島社長なる人物は何者なのか。
実は、これまでの僕達のやり取りの中にも、そのヒントは随所に隠されている。
ただ、無知な僕がそれに気付かなかっただけのこと。

では、その謎解きはまたのお話。

⇒ 第16話へ

2007年04月08日

「篤」が「あつし」に変わるまで(14)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・品川出版(株)の社長。実在する人物だが仮名。
●品川出版(株)・・・在京の出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 14

- ついに完成! -

友達には、

「来年早々には俺の本が出るから買ってよ。サインするからさぁ~」

なんて戯言を言いふらす始末。

「お前、騙されてるんじゃないの?」
「本が出るって・・・、自費出版でしょ?」

友達は、誰一人としてまともに取り合おうとしなかったが、とにもかくにも原稿は完成したのだ。

今に見ていろ。
後は、この原稿を福島社長が本にしてくれるのさ。

時は、世間がWindows95ブーム一色に染まっていた95年11月の終わり。
原稿が完成したことを嬉々として僕から伝えられた福島社長は、受話器の向こうでこう答えた。

「あ、そう。それなら・・・、年内に少し動いてみようかな。」

ん?
微妙にではあるが、どこか迷惑そうな受け答えだな・・・

一瞬そう感じたが、「今、きっとお忙しいのだろう」。
頭をもたげかけた釈然としない気持ちも、そう解釈することですぐに吹き飛んでしまった。

「では、その原稿を送ってください。それから、これから少し動きますので、まず30万円を弊社の指定口座に振りこんで頂けますか」

「え! 30万円!?」

⇒ 第15話へ

2007年04月02日

「篤」が「あつし」に変わるまで(13)

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主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・品川出版(株)の社長。実在する人物だが仮名。
●品川出版(株)・・・在京の出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 13

- ついに完成! -

僕は、どうしても素直には喜べなかった。

「いや、もうテストはパスしたと思ってください。本が完成すれば、それで合格!」

確かに、福島社長はそう言った。

テストに合格したのだ。
そう遠くない将来、僕の本が全国の書店に並ぶのだ。
本来なら、こんなに嬉しい話はない。

しかし、素人考えだが、原稿に一瞥もくれずに、しかも何の実績もないどこの馬の骨ともわからない「大村篤」という人間に、そう簡単に本を書かせていいものなのか。
もし自分が出版社の人間なら、そんなリスキーなことは絶対にしないであろう。

おかしな話だが、この頃の僕は、自分のことよりも福島社長の身を案じ始めていた。

しかし、何とも釈然としない気持ちの中でも、とりあえず執筆を進めるうちに、僕の中からそうした不安や懸念、また他人の身を案ずる「余裕」はしだいになくなっていく。

気が付いたら、来る日も来る日も12時間もの時間を執筆に費やしていた。

そして、ここが僕が楽天家たるゆえんだが、自分の原稿に酔いしれ、福島社長の言うとおり、当然その原稿が書籍として世に出ることを信じて疑わなくなっていった。

いや、ベストセラーになるとすら思っていた。

舞い込んでくるソフトの開発の依頼もすべて断り、とにかく執筆三昧。

今でもそのときの自分の集中力に驚かされるが、ものの2ヶ月で原稿を完成させてしまったのだ。

⇒ 第14話へ

2007年03月26日

「篤」が「あつし」に変わるまで(12)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・品川出版(株)の社長。実在する人物だが仮名。
●品川出版(株)・・・在京の出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 12

- 噛み合わない会話 -

こうなると、さすがに僕も聞き返さざるを得なかった。

「あのー、お渡しした原稿は未完成なんですが」

「え?未完成なの?」
途端に、福島社長の声が弾んだのがわかる。

「それじゃ、まずいよ。それじゃ持っていけないよ」

「いえ、しかし、仮に別のパート、たとえば『売上入力』を『入金入力』に差し替えて30ページ完成させたところで、それは全体の一部に過ぎません。素人考えですが、本全体が完成しなければ印刷所には持っていけないんじゃないでしょうか?」

「んー、そうだ。じゃー、こうしよう。一層のこと、本全体を完成させてよ。時間をかけてもいいから、じっくりといいものを書いてよ」

「でも、全体を書き上げてから合否発表では、私も仕事がありますし、リスクが大きすぎると思うんですが。最悪の場合、数ヶ月を棒に振ることになりかねません」

「いや、もうテストはパスしたと思ってください。本が完成すれば、それで合格!」

実は、この会話、まったく歯車がかみ合っていない。
福島社長が僕の原稿を持っていこうとした場所は、印刷所ではない。
冷静に考えれば、編集も済んでいない原稿を印刷所に持ち込むわけがない。
また、なぜ福島社長は、僕の原稿が届いた時に、思わず残念がった、いや、むしろ迷惑がったのか・・・

その謎解きは、またのお話。

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2007年03月22日

「篤」が「あつし」に変わるまで(11)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・品川出版(株)の社長。実在する人物だが仮名。
●品川出版(株)・・・在京の出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 11

- 噛み合わない会話 -

今でも曜日は覚えている。
木曜日だ。
30ページの中途半端な原稿を速達で送ったのが月曜日。
もちろん、翌日火曜日には品川出版に届いているはずだ。

せっかちな僕は、よほど火曜日の夕方に電話で結果を聞こうと思ったが、「さすがにまだ目を通していないだろう」と思って我慢した。

そして、翌日夕方に、はやる気持ちを押さえながら電話したのだが、女性アルバイトが福島社長の外出と翌日の在社を僕に告げてくれた。

そのときに、原稿が届いていることは、念の為にその女性アルバイトに確認を取ったが、まだ未開封であることを知らされたときにはさすがに大きな不安が頭をよぎり始めた。

「やはり、出版社の社長ともあろう人が、そうやすやすと原稿に目を通してはくれないのではないか」

そんな不安を拭い去ることができないまま、翌日僕は、意を決して再び受話器を取ったのだ。

「え、もうできちゃったの?」
「あ、本当だ。確かにこちらに届いてますね」
「んー、どうしようかな。これ、確かExcelのマクロだよね。となると、まずはあそこかなー」
「んー、Excelだよねー、これ・・・」

おっと。
また福島社長お得意のひとり言なのか質問なのかわからない、微妙な言い回しが始まったぞ。

しかし、今回は言っている意味がさっぱりわからない。
僕の原稿が「完成」したことを残念がっているようにも聞こえる。

いや、それよりも、「あそこ」って何だ?

ひょっとして印刷所かな?

え!

となると、内容も読まずに僕はテストに合格?

ちょ、ちょっとそれはまずい。

僕の原稿は「未完成」だ。

「売上入力」の半分も書いていない。

いや、待て、そもそも書いたのはたったの30ページ。

それを印刷所に持ち込んで本にしてしまうのか?

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2007年03月16日

「篤」が「あつし」に変わるまで(10)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・品川出版(株)の社長。実在する人物だが仮名。
●品川出版(株)・・・在京の出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 10

- 未完成の原稿 -

このとき、僕には3つの選択肢があった。

理由を説明して、中途時半端な原稿をそのまま渡す。
30ページという枠にとらわれずに、「売上入力」を完成させてから渡す。
30ページという枠に収まりそうな、別のパートを一から書き直す。

そして、せっかちな僕が選んだのは・・・。
もちろん最初の選択肢である。

もう、1秒でも早く原稿を見てもらいたい。
そんな気持ちを押さえ切れずに、未完成の原稿をプリントアウトして、福島社長の名刺に記された住所に郵送してしまったのだ。

ただ、同封したあいさつ文の中で、送った原稿は未完成であることを、必要以上に強調してみせた。
万が一、これが完成と勘違いされたら、せっかく掴んだチャンスも逃げてしまう。
そう思ったからだ。

実は、このとき僕は2回目の「たら」「れば」に直面していた。
僕の前には、先ほど言ったように3つの選択肢、すなわち「たら」「れば」があった。
どの道を進んでも、さして違いはないような気がする。

また、実際僕も、そのときの選択にはさほど悩みはしなかった。
3本のどの道を進んでも、またそれらの道は1本に合流すると軽く考えていた。
だが、もしそのとき別の「たら」「れば」を選択していたら、今この文章を書いている僕は間違いなく存在していない。

そして、未完成のまま送ってしまったその原稿が、その後の僕と福島社長の歯車を徐々に狂わせ始めることになる。

いや、正確に言えば、始めからかみ合っていなかったもっと大きな歯車が運命的にかみ合い始めることになるのだが、それはまたのお話し。

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2007年03月13日

「篤」が「あつし」に変わるまで(9)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・品川出版(株)の社長。実在する人物だが仮名。
●品川出版(株)・・・在京の出版社。実在する会社だが仮名。

Episode 9

- 未完成の原稿 -

「企画書はいいから、とりあえず30ページぐらい書いたら連絡頂戴よ」

福島社長にそう言われた僕は、ものの5日間で30ページを書き上げてしまった。

「これから書く30ページは、いわば本当に本を出版してもらえるかどうかのテストだ。時間をたっぷりかけて、構成をしっかり練って、一字の誤字もない最高の原稿を書こう」

そうつぶやくもう1人の自分もいたが、元来せっかちな本物の自分を制止することはできなかった。

気を付けたのは、「一番訴求力のあるパートを書く」。
ただそれだけ。
そして、販売管理の最重要パートである「売上入力」について書き始めたが、全体の半分も書かないうちに30ページに達してしまった。

この手のソフトを開発した経験者であればご存知かもしれないが、売上入力は本当に奥の深い処理モジュールである。
売上がたてば、財務的には売掛金が発生するし、売り上げた個数分、在庫の出庫処理もバックグラウンドで行わなければならない。
フロントとしては、納品請求書や送り状、郵便振替用紙の印字も同時で行う必要がある。
そもそも、これだけの処理をExcel/VBAで実現するための解説を30ページでやってしまおう、と考えた自分が甘かった。

さて、これは困った。

こんな中途時半端な原稿を渡していいものか・・・。

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2007年03月08日

「篤」が「あつし」に変わるまで(8)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・品川出版(株)の社長。実在する人物だが仮名。
●品川出版(株)・・・在京の出版社。実在する会社だが仮名。
●宮城社長・・・私の経営していた会社の主要取引先の社長。実在する人物だが仮名。

Episode 8

- 2つの「たら・れば」 -

「わかりました!」

実は何もわかっちゃいない。
何がなんだかわからないが、とにかく僕が本を書けばこの人が本を出してくれる。
どうもそうらしい。

本ってそんなに簡単に出せるものなのか?
いや、しかしこの人は出版社の社長だ。
まさか、思い付きでや気まぐれで「出版しようよ」とは言わないだろう。

でも・・・本当に僕でいいのか?
本当に僕なんかが本を書いていいのか?
いや、そもそも自分に本なんか本当に書けるのだろうか・・・

僕は、再び思考の迷路の中をさまよい始めていた。

だめだ。
考えれば考えるほどわからなくなる。
とりあえず考えるのはやめにしよう。

これ以上考えても仕方がない。
これ以上ここにいてもらちがあかない。
とにかく、早く家に戻ってさっそく取り掛かってみよう。

幸い、接客を終えた憂鬱なオペレーターは、パソコンの前には座らずに自分の机で雑誌を広げて読んでいる。
もう僕の説明を受ける気もないのだろう。
福島社長の登場は、彼女にとっても予期せぬ援軍だった、ということか。

そうとなれば話は早い。
百人一首はまた次の機会でいいだろう。

人間の運命に「たら・れば」はないと言う。
しかし、あの日、あの時間に僕があそこにいなければ。
いや、仮にいたとしても、もしMacの電源が消えていたら。

今でも、この2つの「たら・れば」が頭をよぎる。

その後、実際に自分の本が世に出るまで、いくたびもの「たら・れば」の綱渡りをしなければならないことなど、家路を急ぐ僕には知る由もなかった。

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2007年03月05日

「篤」が「あつし」に変わるまで(7)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・謎の人物。
●宮城社長・・・私の経営していた会社の主要取引先の社長。実在する人物だが仮名。

Episode 7

「福島さんは出版社の社長さんなんですか?」

「えー、そうですよ。小さいところですけど」

「宮城社長、だったら福島さんはそれぐらいのことはご存知ですよ。出版社はあの種類のパソコンがなければ仕事にならないんですから」

「え、そうなの。品川出版もあのパソコン使ってるの?」

「えー、使ってますよ。だけど宮城社長のおっしゃるとおり、デザインなんかするときに使いますが、あのように販売管理で使っているのを見るのは初めてですよ。Macでもやればできるんですねー」

ついに、話が振り出しに戻ってくれた。

今だ。

「あ、そー言えばさっき、『本を書いたら』とおっしゃってましたよね?」

まるで思い出したかのような口振り。
精一杯の演技である。

「あ、そうそう。Excelのマクロで販売管理ができるって、これはテーマとしては面白いよ。書けば売れるよ、きっと。Macユーザーはみんな飛びつくんじゃないのかなー」

こちらの方は、演技でもなんでもなく、本当に思い出したかのような口振りだ。

「もし私が原稿を書いたら、目を通して頂けますか?」

「いや、目を通すも何も出版しようよ。絶対にいけるから」

心臓が高鳴るのが手に取るようにわかる。

「わ、わかりました。さっそく戻って構想を練ってきます。そして、企画書みたいな形でお見せすればいいんですよね?」

「いや、企画書はいいから。そうだなー、とりあえず30ページぐらい書いてみてくれる。それができたら連絡頂戴よ」

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2007年03月01日

「篤」が「あつし」に変わるまで(6)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・謎の人物。
●宮城社長・・・私の経営していた会社の主要取引先の社長。実在する人物だが仮名。

Episode 6

出版社?

代表取締役?

聞いたことがない名前だが、名刺にはそう書かれている。

それに今、「僕の会社」と言った。

出版社の社長?

この人、さっきパソコンの前でなんて言った?

「その本書いてみたら?僕が力になりますよ」

確かにそう言った。

力になるってどーゆー意味だ?

かつて、一度でも僕をこんなに考え込ませる名刺があっただろうか。
しかし、一言、僕が一言尋ねれば、この疑問は氷解する。
それがわかっていても、その一言が切り出せない。

そのうち、2人の社長は歓談を始めてしまった。

仕方がない。
しばらく様子見といこう。
そう観念しかかったが、チャンスはすぐに訪れた。

顔なじみの宮城社長がMacを指差しながら

「あの種類のパソコンをビジネスで使うのはめずらしいんですよ。私はコンピュータのことはまったくわからないんですけど、あのパソコンはデザイナーとかが使うやつで、あまり業務用向きじゃないんですよ。でも、せっかくあるものを遊ばせておくのも何だから、大村君に相談したら、『工夫すれば業務用でも使える』と言うもんで、今回お願いしたんですよ」

二度目の援軍だ。

これなら切り出せる。

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2007年02月27日

「篤」が「あつし」に変わるまで(5)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・謎の人物。
●宮城社長・・・私の経営していた会社の主要取引先の社長。実在する人物だが仮名。

Episode 5

 - 品川出版 福島一郎 -

「へー、社長さんですか。まだお若いのに」

僕の名刺を受け取った人のお決まりのセリフである。
当然僕も、そのお決まりのセリフに対応するすべは心得ている。
しかし、今はいつものその対応ができない。

「君の会社は大村君と、あと、確かアルバイトが1人だっけ?」

顔なじみの宮城社長の思わぬ援軍である。

「あ、はい。そうです」

この程度のセリフなら、考え事をしていてもかろうじて出てくる。

「へー、じゃー僕の会社とおんなじだ」

そう言って差し出された名刺には、次の文字が躍っていた。


     品川出版(株)

     代表取締役 福島一郎

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2007年02月24日

「篤」が「あつし」に変わるまで(4)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・謎の人物。
●宮城社長・・・私の経営していた会社の主要取引先の社長。実在する人物だが仮名。

Episode 4

 - すべては、彼の一言から始まった -

そして僕は、再び彼との会話に戻る。

「実は、バージョンアップしてからExcelの書籍がまったくないんです。そのために予想以上にかかっちゃったんです」

「え?だけど時々本屋で見かけるけどなー」

「えー、操作的なものはいろいろあるんですけど、マクロ言語になるとさっぱり、というのが現状です」

そして小声で、「『Excelマクロで作る販売管理』なんて本があれば、この規模のシステムなら1ヶ月で作れますよ。僕にそんな本を書かせてくれる出版社があれば、間違いなくベストセラーですよ」

初対面の人にこんな「冗談」を飛ばす僕も「社交的」いや「お調子者」である。
どうやら、名前も知らないこの人とは気が合いそうな予感がする。

「売れるよ」

「え?」

「その本売れるよ。書いてみたら?」

「え?」

「その本書いてみたら?僕が力になりますよ」

すべては、彼のこの一言から始まった。

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2007年02月23日

「篤」が「あつし」に変わるまで(3)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。
●福島一郎・・・謎の人物。
●宮城社長・・・私の経営していた会社の主要取引先の社長。実在する人物だが仮名。

Episode 3

 - すべては、彼の一言から始まった -

「ずっと手書きの台帳でやってきたのに、なぜ突然パソコンなんか・・・」

「パソコン導入を決めたのはそちらの社長でしょう。八つ当たりもほどほどにしてくれないか」

声にこそしないが、共に不満を抱えた2人が機械的に話を進めていると、階上の社長室から 2人の人物が降りてきた。
見慣れた1人はその会社の宮城社長。
しかし、その隣の人は初顔だ。

僕は、「お世話になります」と宮城社長に頭を下げ、隣の人には軽く会釈をした。
僕とは何の関係もない人物ではあるが、会釈ぐらいはしておいた方が無難だろう。
すると、その人は来客テーブルに招く宮城社長をよそに僕達、いや、正確には僕のところに歩み寄ってきた。
気が付くと、憂鬱なオペレーターは、彼らにお茶を出すためにすでに給湯室に消えていた。

「こんにちは」

彼は満面の笑みで僕に挨拶を交わす。
年にして40代半ばぐらいであろうか。
よく言えば「社交的」、悪く言えば「お調子者」という印象の人だ。

「へー、Mac使ってるんですかー」
「あれ、これExcelですねー」
「あ、これは凄い。Excelでこんなこともできるですね」

矢継ぎ早に、ひとり言とも僕への質問ともとれることばが飛び出す。

んー。
この人はかなりパソコンに精通している。
MacやExcelに気付くのは造作もないことだが、彼は、僕が「Excelを開発ツールにして」販売管理ソフトを開発したことに見た瞬間気付いている。

これだけ鋭いのだから、次の質問が彼の口から出てきても何の不思議もない。

「これって、Excelのマクロで作ったんですか?」

「えー、そうです。特にExcelは5.0になってマクロ言語が画期的に進歩したんです。だから、こんな事ができるんですよ」

「へー、Excelのマクロはこんなに進歩したんだー」

しばらくの沈黙の後、

「これぐらいの販売管理をExcelで作るのに、日数は結構かかるんですか」

「いやー、予定では2ヶ月を見込んでたんですが、実際には3ヶ月かかっちゃいました。おかげで、今回の仕事は割にあわなかったですよー」

僕は多少意地悪な視線を宮城社長に向ける。

宮城社長は、「かかる日数を正確に見積もるのも仕事のうちだぞ」と笑みを返す。

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2007年02月21日

「篤」が「あつし」に変わるまで(2)

< 第1話 からお読みください >

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。

Episode 2

 - ストレス地獄 -

 実際、キーボード上で四方八方に人差し指を動かしながら文字を探しているその人の姿を見て、

「おいおい、それじゃぁ、ほとんど百人一首の札取りだ」

と心の中でつぶやくほど、僕のストレスは絶頂に達していた。

「もうシステム開発からは身を引こう」
「いや、いっそうのことコンピュータ業界からは足を洗おう」
「以前、数ヶ月間アルバイトでやっていた通訳にでもなるか?真剣に勉強すれば、通訳でも食べていけるだろう」

そう。
当時の僕は、お世辞にも上手とはいえないが、TOEICのスコアで800点。
念のために辞書さえ持参しておけば、限られたテーマであれば十分に通訳が務まるだけの英語力は身に付けていた。

もっとも、英語は単なるツール(道具)。
本当にプロフェッショナルと呼べるだけの通訳になるためには、地理や歴史、経済、文化など、幅広い知識や見識が要求されることもわかってはいた。

それだけに、一瞬でも「通訳になろう」なんて思った自分を自嘲する自分。
それでいて、では何をどうしたらこの「ストレス地獄」から抜け出せるのか、そのソリューション(解決法)を見つけ出せない自分。

「ストレス地獄から抜け出せないストレス」が、さらにストレスに拍車をかける。

今でも「悪循環」という言葉を聞くと、当時の自分を思い出す。

しかし、そんな僕の運命は、その数分後に劇的に変わり始めることになる。

「通訳になろう」なんて、できもしない考えが頭をよぎったその直後から・・・。

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2007年02月20日

「篤」が「あつし」に変わるまで(1)

主要登場人物・団体

●僕・・・この物語の主人公。わたくし、大村あつしのこと。

Episode 1

 - ストレス地獄 -

「それでは次に、データの変更の方法をご説明します」

「え?、あっ、はいはい。お願いします」

ほらこれだ。
人の説明など何にも聞いちゃいない。
もっとも、この人の気持ちもわからないではないが。

「なぜ突然、私がパソコンなんか覚えなければいけなくなったの?」

そんな不満が頭の中で渦巻いているのだろう。

しかし、はなからやる気のかけらもない人にソフトの説明をしなければならない僕の気持ちもわかって欲しい。
僕の人生哲学は「誰でも最初は初心者」である。
初心者に教えるのは、決して嫌いな方ではない。
むしろ、感謝されたときの喜びは、何にも変えがたいものがある。
そう、元来は、設計やプログラミングより、サポートの方が好きなくらいだった。

ところが、当時は、どの会社に行っても、しぶしぶ僕の説明を受けるパソコン担当者ばかり。
これは単なる偶然ではなく、親会社で僕のソフトの「受け」が非常に良かったため、多数の子会社に一斉に、僕の販売管理システムの導入指令が出されていたのだ。

そしてこれは、それまでは手作業でもそれなりに楽しく仕事をしていた、パソコンに恐怖心さえ感じる子会社の事務員には、はなはだ迷惑な指令だったというわけである。

一度覚えてしまえば自分が楽になるのに、なぜそれをわかろうとしないのか。
いくら「客」だからといって、説明を受けるときにその好戦的な態度はやめてくれないか。
毎日がこのイライラの連続。
これでは、「初心者にやさしく」という僕の人生哲学も吹き飛んでしまう。

⇒ 第2話へ