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無限ループ

無限ループ

 

アマゾンで2部門(ミステリー、文庫小説)で1位獲得!

金を増やすなどたやすいことだ ただ、怒ればいい

物語とタイトルが一致したときに押し寄せる戦慄と感動

 スピードとどんでん返しの連続が魅力の傑作ミステリー

mugenloop

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あらすじ

深夜の新宿・歌舞伎町。平凡なサラリーマンの西城誠二は、びしょ濡れのセーラー服姿の美人女子高生ヨーコから奇妙な買い物をする。それは、「怒り度に応じて」憎悪する相手の財産を奪える箱、「シルバーボックス」だった。

誠二が、日頃から恨んでいる上司の顔を思い浮かべながら箱に手を置くと、箱の液晶パネルには怒り度を示す「90」の数字が表示され、上司の全財産の90パーセントに相当する現金が彼の押入れに現れた。

やがて誠二は、身近な連中を相手に怒っても大金は手にできないことに気付く。「身近な連中」は、生活レベルも自分と同じであるためだ。獲物は「金持ち」でなければならない。しかも、そこには「怒り」がなければならない。怒りがゼロでは、手に入る金もゼロだからだ。

この単純だからこそもどかしいルールに悩み、真面目だけが取り柄だった誠二の興味は、「いかに働くか」ではなく「いかに怒るか」に変容していく。そして足を踏み入れた夜の銀座。しかし、彼を待ち受けていたのは狂乱の一語に尽きる世界であった。

そこで誠二が見た「無限ループ」とは?

圧倒的なスピード感と予期せぬストーリー展開。そして、ミステリアスでありながらも感涙必至のエンディングが魅力の傑作長編小説。

みなさんは、シルバーボックスがあったら誰に使いますか?

会社の上司ですか?

学校の先生ですか?

自分をふった異性ですか?

ただ、くれぐれも「無限ループ」にはご用心ください。

摩訶不思議な女子高生 無限ループ 第一話

 薄汚れたアスファルトに瞬く間に染みが広がっていく。西城誠二は、慌ててくたびれたカバンで頭を覆い、ピンサロのチラシで埋め尽くされた電柱に吸い寄せられるように、意に反してその角を曲がった。そのまま真っ直ぐ行けばコンビニがあったのに――。そこでビニール傘を買うつもりだったのに――。しかし、誠二は、見慣れない路地裏に足を踏み入れた自分の行動に、不思議と違和感を覚えてはいなかった。

 とりあえず、急な雨を避けるために薄茶色くひなびたビルに駆け込むと、誠二は溜息をついた。

「ついてないな。なんだ、この雨。天気予報でも今夜は雨なんて言ってなかったぞ」

 そのとき、背後から若い女の声がした。

「天気予報なんて当たるわけないじゃない」

 声のほうを振り向くと、彼女も雨に濡れたのだろう、びしょ濡れの女子高生が身をかがめてはちきれんばかりの健康的な太腿をハンカチで拭いていた。

 思わず、誠二は心の中で口笛を吹いた。二年間も恋人がいない日々を過ごす二十七歳の男の相応な反応。すると、そのときめきが共振したのか、手の動きを止めた彼女は顔を上げて誠二を見据えた。

〈へえ、半端じゃなく可愛いな、この子。さっきまで遊んでいたキャバクラのナンバー1よりも魅力的じゃないか。背も高いし。俺と目線の高さが同じということは、百七十センチもあるのか。……。やばい。顔を直視できない……〉

 力強い、それでいて肉感的な温かみを宿した彼女の黒い瞳に誠二の心臓が早鐘を打つ。と同時に、目のやり場を探して誠二の視線が黒い中空を彷徨(さまよ) う。

 古びたビルで、傘はおろか学生カバンさえ持たずに手ぶらでたたずむ女子高生。しかし、誠二はその光景の異様さに気付く余裕も失うほど、女子高生が持ちえるはずがない麗姿に動揺していた。雨に濡れた長い黒髪も誠二にはまぶしく淫靡(いんび) だった。

「お兄さん。今日、会社で嫌なことがあったんでしょう? だから、こんな時間まで歌舞伎町で遊んでたんだ?」

 彼女の言うとおりだった。今日は会社でどうにも我慢ならない一件があった。憎悪に満ちた誠二は、憂さ晴らしにこの街に足を運んだ。そして派手に遊んだ。三万円も撒いた。それでもストレスは発散し切れなかった。もっと楽しみたかったところだが、財布の中身が一万円札一枚だけになった時点で諦めた。

〈明日は給料日だ。遊びはまた仕切り直しだ〉

 渋々、帰宅するために新宿駅に向かっていたら、突然の雨に襲われて、なぜか、今こうして摩訶不思議な女子高生と一緒に雨宿りをしている。

「うん、確かにきみの言うとおりだよ。だけど、なんでそう思うんだい?」

「私は人の心が読めるのよ。それに未来もね」

 その珍妙な一言で、誠二は、それまで強烈に自分を支配していた好奇な興奮が急速に萎えていくのを感じた。

〈この子、頭がおかしいんじゃないのか?〉

 それでも相手にしてしまうのは、まだ誠二の中にわずかばかりの興味があったためか。

「人の心が読める? 未来が読める? きみ、なにを言ってるの? それよりも、そんな制服姿でこんな時間にこの街をうろうろしていたら警察に補導されるよ。いや、警察に補導されるくらいならまだましだよ。下手をすると怖いおじさんに補導されちゃうよ」

 誠二は、「怖いおじさんに補導される」の意味を明示すべく、生足に際どい視線を這わせようと試みたが、理性に制された。いや、はなからそんな大胆さは持ち合わせていなかった。

 だが、彼女は誠二の忠告など気にも留めずに不機嫌そうに反論した。

「私の言うこと信じないの?」

「信じられないよ。だって、歌舞伎町で男が一人で遊んでいれば、ストレス発散が目的だってことくらい容易に想像が付くよね。それに、大安売りで買ったこのスーツ姿を見れば、そのストレスの原因が会社だってこともね。そんなの、人の心を読んだことにはならないよ」

「じゃあ、私が未来が読めるっていうのは?」

「ごめん。それも信じられない。って言うか、むしろそっちのほうが余計に信用できないよ。未来がわかっちゃったらなんでもありじゃない」

「…………」

 女子高生が幾分暗い表情で無言になったため、誠二は慌てて取り繕った。

「あ、じゃあ信じて欲しいなら、なにか予言してみてよ」

 その一言に彼女の瞳が光を宿す。

「あ、そう。証明しろ、ってことね。了解! うーん、なにを予言しようかな……」

〈やっぱり相手にするんじゃなかった……〉

 後悔する誠二におかまいなく彼女は空を見上げると、次の瞬間、真顔になった。

「この雨、今から三分二十秒後にやむわ。お兄さん。さあ、すぐに時計を見て」

「この大雨がやむ? まさか? それに、三分二十秒後って、そんな細かな数字、どこから弾き出して……」

「いいから! すぐに時計を見て!」

 言葉をさえぎられた誠二は、彼女のあまりに真剣なまなざしにたじろぎ、時計に目を落とすことにした。

〈はあ。遊び足りない歌舞伎町の夜のフィナーレがこれかよ。まったく……〉

 

運命の商談 無限ループ 第二話

「そんな馬鹿な……。どうして?」

 およそ三分二十秒。長く退屈な時間。渋々時計を凝視していた誠二は、雨がやんだ空を唖然と見上げたあと、眉を吊り上げ半開きの口で女子高生に問いかけた。

「だから言ったじゃない。私は未来が読めるって。どう、私の言ったこと信じる?」

 確かに、信じないわけにはいかなくなった。彼女は、あの大雨がやむ時刻を秒単位で予言してみせた。これは偶然では片付けられない。

〈どうしてこの子はそんな能力を持っているんだ? エスパーか?〉

 誠二が訳もわからずに必死に自問自答していると、たたみかけるように彼女が商談を持ちかけてきた。

「ねえ、お兄さん。もし、私のこと信用してくれるならいいモノ買わない?」

「え? ああ、きみのことは信用するよ。するしかないだろう。だけど、いいモノってなんだい?」

 そこで言葉を区切った誠二は、すぐに浮かんだ連想に胸を悪くした。そして、怒りで顔を紅潮させると、唾棄するように言葉をつないだ。

「きみ、そういうことしてるわけ? 悪いけど主義じゃないんだ。なあ、すぐにやめたらどうだい。余計なお世話かもしれないけど、もっと自分を大切に……」

「ちょ、ちょっと! そういうこと、ってなによ! 主義、ってなによ! 私、援交を持ちかけてるんじゃないわよ」

 大暴走の誠二の勘違いに、彼女は売り物は“自分”ではないと否定してふくれてみせた。その愛らしい仕草は、卑俗な早合点をしてしまった誠二に自省を促すに十分なものだった。

「も、もちろん、誰も、え、援交だなんて思ってないよ。きみがそんな子じゃないことはわかってるよ」

 誠二は、咄嗟(とっさ) にお茶を濁すと精一杯の作り笑顔を見せた。

「で、なにを売ってくれるの?」

「その気になったのね。じゃあ、今から説明するからちゃんと聞いてね」

「説明は聞くけど、早くそのモノを見せてよ。モノを見ながらのほうが説明がわかりやすいし」

「今ここにはないわ」

「ここにない? じゃあ、どこにあるの?」

「だから説明を聞いてって言ってるでしょう」

 じれったそうに話を先に進めようとする彼女は、雨がやむまでの間に濡れていた髪の毛やセーラー服をハンカチで拭い去り、その美しさが一段と輝いていた。

「わかった。じゃあ、駅に向かいながら説明を聞くよ。雨もやんだし、とりあえずここを出よう」

彼女の説明はシンプルなようで難解だった。

 そのモノの設置場所は誠二のアパートの押入れの中。彼女に金さえ払えば、今夜からでも使うことができる。説明を聞く限り確かに魅力的だ。世界中の庶民がこぞって欲しがるに決まっている。「いらない」と言うのは、売るほど金を持っている奴だけだろう。

 使い方はいたってシンプルで、誠二はすぐに理解した。しかし、まったくもって実感が伴わない。それが彼女の説明を難解にしていた。

「私の説明、わかった?」

 誠二は、首を縦に振るべきか横に振るべきか迷ったが、とりあえず“縦”を選んだ。

「そう。じゃあ、あとはグレードを選ぶだけよ。さっきも話したとおり、爆発がどうしても怖ければハイグレードだけど、まあ、ローグレードでも爆発して死んじゃうなんてことはまずないわ。さあ、お兄さん、どちらを選ぶ?」

「どちら」と訊(き) かれても、そんなモノの存在が実感できていない誠二にとって、グレードの高さなどどうでもよいことだった。当然にして誠二は困惑した。すると、その様子を見た彼女が助け舟を出した。

「じゃあ、グレードは私が選んであげる。それでいい?」

 誠二は再び首を縦に振った。感情を伴わない機械的な動作だった。ところが、そのときにかすかに感じた頭の重みで、眠りから覚醒したかのように、それまで活動を停止していた誠二の左脳に電流が走った。

「ちょっと待ってくれ。なあ、論理的に考えよう。そんなモノがこの世にあるはずがないだろう」

「じゃあ、買わないの?」

「だから、買うとか買わないという問題じゃなくて、そもそもきみの説明は……」

「あ、また私のこと疑い始めてるんだ」

 彼女が誠二の言葉をさえぎるタイミングは絶妙だった。

「じゃあ訊くけど、お兄さん、さっきはどうしてあんな路地裏に逃げ込んだの? コンビニでビニール傘でも買うつもりじゃなかったの?」

「…………」

「それに、秒単位で雨がやむ時間がわかる私が、なぜ雨に濡れてあんな古びたビルで雨宿りをしていたと思う? 雨が降ることが予感できないなんて滅多にないことよ。つまりは、私の予感を邪魔するほどのもっと大きな力が働いたのよ。私の言いたいことがわかる?」

 確かに、あのとき、真っ直ぐにコンビニに向かわずに、吸い寄せられるように路地裏のビルに逃げ込んだら、彼女が待っていたかのように声を掛けてきた。それは紛れもない事実だ。

「運命……、って言いたいんだね」

「そう。私とお兄さんが今夜出会ったのは運命なの。もっと言えば、お兄さんが私からそのモノを買うこともね」

彼女の言い分は説得力に溢れていた。

〈運命か……〉

 抗(あらが) えない思いが胸に去来し、「わかった、買うよ、それ」という言葉が自然に誠二の口をついて出た。

「グレードはどっちでもいいよ。きみの都合のいいほうで」

「本当!?  じゃあ、ハイグレードは今ちょっと品薄だからローグレードかな。あ、でも値段にもよるわよ」

「そう言えばそうだ。で、いくらなの、それ?」

「うーん、いくらでどちらを売ろうかな……。お兄さんの懐事情にもよるし……。って、ぶっちゃけ、どちらを売るかは私の気分しだいなんだけどね。フフフ」

 彼女は赤い舌を出して首をすくめた。

〈なんだ。そのモノには値段もないのか。運命には値段は組み込まれていないのか? やっぱり、いまひとつ頼りないんだよなー、この子〉

 誠二の中で再び不安が芽生えたとき、彼のそんな思いを吹き飛ばさんばかりに、「よし、決めた!」と彼女が言った。そして、値段が告げられた。それを聞いて、誠二はあまりの高額ぶりに素っ頓狂な声を上げた。

「代金は俺の全財産!?  ちょっと待ってよ! アパートに帰って押入れを開けるまで実物の確認もできない代物に全財産を払えって言うのかい?」

「あら、また私のこと疑うわけ? 運命はどうなったの? これまでのこと、すべて偶然で片付けるつもり?」

 誠二は必死で言葉を探した。

「いや、偶然だとは思ってないよ。でも、全財産なんて……」

「ちょっと待って。お兄さん、なにか勘違いしていない? 全財産って言うと確かに法外な気がするけど、お兄さんの全財産って所詮……。フフフ」

 彼女が笑いを押し殺すのを見て、誠二は自分の錯覚に気が付いた。「全財産」と言われて反射的にひるんだが、「五万円」と言われれば安い買い物だ。誠二の全財産は手持ちの一万円と四万円ほどの貯金だけ。それに、今夜一晩だけで三万円も遊んでいる。それを考えると、彼女の商品は激安とも言えるものだった。

〈安いな。それなら買ってもいいかな。いや、場合によっては騙されてもいいか。もしそんなモノがなかったとしても、それも含めて“運命”ということか〉

「それに、お兄さん、明日給料日でしょう? どうせ買うなら、給料日の前のほうがお買い得ってことくらいわかるでしょ?」

〈明日が給料日であることまでお見通しか、この子は……〉

 誠二は、苦笑交じりに口を開いた。

「わかった。買うよそれ。代金は本当に俺の全財産でいいんだね?」

「うん。これで商談成立ね。じゃあ、ここで別れましょう」

「え? 代金の受け渡しは?」

「もう済んでるから、そのことはそれ以上気にしないで」

〈代金の受け渡しは済んでる? 本当に掴みどころがない子だな……〉


彼女の名はヨーコ 無限ループ 第三話

 会話に区切りが付いたとき、誠二と彼女は新宿駅東口の広場に立っていた。何度か見たことのあるストリートミュージシャンが、先ほどの通り雨でずぶ濡れになりながらいつもどおりの下手くそな演奏を披露している。そんな彼らにもファンはいるらしく、三人の女子高生が、雨に濡れた髪の毛やセーラー服を拭うこともなく騒音に合わせて踊り狂っている。

 いや、もう一人、二十代半ばの美しい女性が、高校生の後ろに隠れるように遠慮がちにミュージシャンを見つめている。そして、時折り、濡れたスーツを拭ったハンカチに視線を落とす。その腕には時計が見える。大切なハンカチなのか。それとも時間を気にしているのか。ホステスを思わせる華美な芳香をほのかな世帯臭で中和したかのような控え目なたたずまい。彼女は、頭の軽そうな女子高生たちとは明らかに異次元の女性だった。

〈はぁー、上品で綺麗な人だなー。俺なんか一生、縁がない世界の人だよな。彼女の目当ては……、ボーカルで決まりか。あいつ、どことなく若いときのリチャード・ギアに似てるもんな。それに、演奏は無茶苦茶だけど、歌は決して悪くない。いや、ひょっとしたら二人は恋人同士か?〉

 誠二が想像を巡らすたびに、彼が彼女を見るまなざしも熱を帯びていく。と、その瞬間であった。

――誠二、働くことはそんなにぶざま?――

<え!?  なんだ今のは? 誰か、呼んだか?>

 誠二は、その声が鼓膜にではなく、脳に直接届いたように感じた。当然、幻聴なのかと訝(いぶか) ったが、腕がぐいっと引っ張られて、その思考はせき止められた。

「ねえねえ。あのボーカル、お兄さんにそっくりね」

 誠二は、つい今しがたまで商談をしていた女子高生がまだ隣にいることに気付き、慌てて言葉を返した。

「え? 似てるかい?」

「うん、似てる、似てる。じゃあ、お兄さん、私行くわよ」

 リチャード・ギアに似ているボーカルに似ている。それは誉め言葉なのか。喜んでいいものかどうか、複雑な心境で誠二は言った。

「あ、ああ。気をつけて帰るんだよ、えーと……」

「ヨーコ」

 そう言うと、彼女は無邪気に微笑(ほほえ) んだ。

「ヨーコちゃん、こんな時間にこんな街をうろうろするのはこれで最後にするんだよ」

「はーい!」

 ヨーコは両手を振ると、バンドの音をさえぎるように、耳を塞ぎながら人ごみの中に走り去って行った。

 誠二は、ヨーコと共に過ごしたわずかな時間に軽い恍惚感を覚えながら、先ほどまで傘代わりにしていたまだ乾き切っていないカバンを開けて中に手を入れた。変色したボロボロの財布を探り当て、それを手に取り、切符を買おうと中を開けたが、次の瞬間、思わず大声を上げた。

「ない! 金がない!」

 誠二の叫びは雑踏に吸い込まれたが、消えてしまったのは彼の声だけではなかった。誠二の財布からは一枚しかなかった一万円札ばかりか、硬貨までもが姿を消していた。

〈どういうことだ……。誰かにすられたのか? い、いや、財布はずっとこのカバンの中にあった。財布ごと抜き取るならともかく、カバンの中から財布を出し、金を抜き出して、また財布をカバンの中に戻しておく。どんなスリだってそんな神業は不可能だ……〉

 誠二は狐につままれた気分だったが、二十秒、三十秒と経過するうちに、これは受け入れがたい虚構ではなく、受け入れてしかるべき現実であることに気付いた。

 唐突に財布から金が消える。このこと自体は受け入れがたい超常現象だ。だが、たった今、誠二は全財産をはたいてヨーコから買い物をしたばかりだ。すなわち、財布に金がないのはまったくもって自然な現象である。むしろ、金が残っているほうがおかしい。

〈きっと、預金残高もゼロになっているだろう……。となると、ヨーコのモノも期待できるってことか〉

 忽然(こつぜん) と金が消えた空っぽの財布が、誠二の心の中に一滴残っていた猜疑心を拭い去り、彼は高揚感に包まれた。

 誠二は、二駅分の距離を足早に歩くと、そこから定期で家路についた。


誠二の押入れ 無限ループ 第四話

 誠二は、アパートに着くと、ミシミシと音を立てそうな階段を上って二階の自分の部屋の前に立ち、ポケットから鍵を取り出した。玄関の扉を開けると、人がすれ違う幅もないほどの狭い廊下が目に飛び込んでくる。右手にはガスコンロが一つ備えられているだけのキッチンまがいのスペース、左手にはユニットバスに通じる扉が見える。いつもと変わらぬ光景だ。

 誠二は、その廊下を二歩歩いて中扉を開けたが、そこに広がるいつもと違う光景に思わず叫び声を上げた。

「なんだ、これは!」

 部屋の中には、布団や古紙回収用の雑誌が散乱していた。

「まさか、空き巣か……」

 誠二は、慌てて窓ガラスに駆け寄る。しかし、鍵はかかったままだ。ガラスも割られてはいない。部屋に入るには、玄関かこのガラス窓だけだ。しかし、そのどちらからも侵入した形跡はない。

「どうやって中に入ったんだ。まさか、合鍵か……。そうだ! それよりも、なにか盗まれたんじゃないか?」

 だが、盗難の線が頭をよぎったとき、逆に誠二の気持ちは幾分軽くなった。それもそのはず、こんなボロアパートの住人が、部屋に金目のものを置いてあるはずもなかった。それに、今の誠二は無一文だ。残高ゼロの預金通帳など盗られても痛くも痒くもない。

 落ち着きを取り戻した誠二は、念のために物色された形跡がないかどうか、タンスの中を確認したがそこは手付かずだった。引き出しの二段目に入れてある預金通帳も元のままだ。開いてみると、案の定、残高はゼロになっていた。

 パソコンも二十二インチのテレビも盗まれていない。自分の身長の半分にも満たない冷蔵庫にいたっては中を一瞥(いちべつ) する必要もない。最初から空である。

〈うーん。どうやら、押入れの中にあったものが部屋に散らばっているだけのようだな。だけど、一体、誰がどうやって? ……、待てよ。押入れの中? ……。そうか、こんな真似ができるのは……〉

 誠二は、残高欄に「0」と印字された預金通帳にもう一度目線を落とすと、加速する動悸を抑えながら押入れを覗き込んだ。空っぽになったそこには、見慣れない箱だけが置かれている。広辞苑を横に二つ並べたほどの大きさの銀色の箱だ。手に取ろうとしたが、床に貼り付いているのかまったく持ち上がる気配がない。いや、貼り付いているというよりも床と一体化してしまっている。

「やっぱりあるぞ。これがヨーコの言っていた例のモノか……」

 誠二は生唾を飲み込んだ。考えてみれば、ここまではすべてヨーコの説明どおりの展開だ。これが全財産はたいてヨーコから買った例のモノであることは疑いようがない。その証拠に、約束どおり押入れに設置されている。

「この箱に、彼女が言っていた力が秘められているのか。……。早速、使ってみようか……」

 誠二は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

〈でも、本当に使ってしまってもいいのか? ヨーコが言っていたこと。そんなことが許されていいのか……〉

 しばらくの逡巡ののち、誠二は決意した。

「よし、使ってみよう。一か八かだ」

 深く呼吸をして一旦息を整えると、誠二は今日の午後の出来事をできる限り詳細に頭に思い描いた。


シルバーボックス 無限ループ 第五話

「西城、客先の要望が変わった。設計書を書いたからこのとおりに開発してくれ」

 その設計書を受け取った誠二は愕然とした。

「あの……、課長。これ、設計が全然変わってしまっています」

「だから客先の要望と言っただろう」

 課長は威圧的に誠二を見下ろした。

「しかし、これではこの一ヵ月の作業がパーです。プログラムを一から開発し直さなければなりません」

「大丈夫。納期は三ヵ月先だ。頑張れば間に合う」

「三ヵ月後!?  それでは当初の納期となにも変わっていません。徒労に終わったこの一ヵ月、いえ、せめてその半分の二週間、客先に納期の延長を交渉していただくことはできませんか?」

 誠二は、思わず椅子から立ち上がって課長に懇願した。だが、そんな誠二にお構いなしに課長は怒声を浴びせた。

「やかましい! お前らプログラマーは俺の設計書どおりに不眠不休でキーボードを打ちまくっていればいいんだ。とにかく納期にはきっちり間に合わせろよ!」

 そう言って課長は踵(きびす) を返すと、自分の席に戻って机の上に足を放り投げた。

「いくらなんでも、あの言い草はないだろう!」

 誠二が怒るのももっともだ。客先の要望が途中で変わるのはプログラムの世界では常識である。最初からそれを想定して設計しておけば、これまでの作業がすべて無駄になることはなかった。課長は、この手の設計ミスの常習犯であった。そして、その尻拭いをさせられるのはいつも誠二たちプログラマーだ。

「あいつには学習能力ってものがないのか!」

 押入れの前で目を閉じて胸くそ悪い課長とのやり取りを反芻(はんすう) していたら、数時間前に彼に対して芽生えた怒りが実にリアルな感情として誠二の脳内で再現された。

「畜生! 無能な課長め!」

 誠二の顔がみるみる紅潮する。

〈まだだ。まだまだ怒れる〉

 顔の赤味が一段と増す。

〈もう少し。……。そろそろか!? 〉

 頬の筋肉が痙攣(けいれん) を始めた。

「今だ!」

 誠二は目を見開いて叫ぶと、銀色の箱の上に掌(てのひら) を置いた。箱の上の液晶パネルには「90 」と表示され、次の瞬間、押入れの中に現金が現れた。

「おいおい、マジかよ。本当に金が出てきたぞ……」

 ヨーコの説明に嘘はなかった。むしろ、ヨーコの説明どおりのことが現実に起きたがために、誠二は平静さを失いかけていた。そのために、現象は一瞬だったが、激しさを増す動悸を抑えながらの現金の確認には多少の時間を要した。

 一万円札が百八十枚。そのほかに、数枚の千円札と硬貨が二十枚ほど。誠二は、万札だけをもう一度数え、同じ結果を得て正確な金額を認識した。

「百八十万円か。怒りの度合いを示すパネル表示は90 パーセントだったから、課長の全財産は約二百万円……」

 紙切れを数える単調作業を終え、落ち着きを取り戻した誠二は心の中で呟いた。

〈二百万って……、役職者の割には思ったよりも少ないな。それより、本当に使ってしまった……。今、課長の手元に残っているのはたったの二十万。これを知ったら課長、どう思うだろう? なんたって、百八十万もの大金が突然煙のように消えたんだから……〉

 そこで誠二は空咳を一つして思案を続けた。

〈それはともかく、この箱は凄い。予想をはるかに上回る凄さだ……〉

 自分を不快にさせた相手の顔と言動を思い起こしながら箱に掌を乗せるだけで、相手の財産の一部が、場合によってはすべてが自分の押入れに現れる。誠二を怒らせれば怒らせるほど、怒りに比例してその度合いをパーセントで示す液晶パネルの数字は高くなり、より多くの現金が誠二に舞い込んでくる。逆に、相手の大切な財産はより多く目減りする。

「確かに公平なルールだ。しかも、俺の仕業とばれる心配は絶対にない。これは完璧かつ、考えうる最高の復讐だ」

 二時間前にたったの五万円で買った箱のおかげで、たちまち百八十万円を手に入れた。三十六倍のリターンだ。だが、そのときの誠二を支配していた感情は、喜びとは異質のものだった。戦慄と恐怖と脅威が一度に押し寄せたかのような情動。汗ばんだ背中に張り付くシャツに不快感を覚え、心臓が鈍痛に襲われた。

 その夜は眠れないであろうことを自覚しながら、とりあえず電気を暗くして布団に横になると、豆電球が供給する小さな暖色の明かりに照らされて、押入れからのなまめかしい銀色の反射が網膜の上で揺らいだ。

 その刺激の中、誠二はその箱を「シルバーボックス」と名付けることにした。

 やがて、睡魔に襲われた。

 

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