彼女の名はヨーコ
無限ループ
第三話
会話に区切りが付いたとき、誠二と彼女は新宿駅東口の広場に立っていた。何度か見たことのあるストリートミュージシャンが、先ほどの通り雨でずぶ濡れになりながらいつもどおりの下手くそな演奏を披露している。そんな彼らにもファンはいるらしく、三人の女子高生が、雨に濡れた髪の毛やセーラー服を拭うこともなく騒音に合わせて踊り狂っている。
いや、もう一人、二十代半ばの美しい女性が、高校生の後ろに隠れるように遠慮がちにミュージシャンを見つめている。そして、時折り、濡れたスーツを拭ったハンカチに視線を落とす。その腕には時計が見える。大切なハンカチなのか。それとも時間を気にしているのか。ホステスを思わせる華美な芳香をほのかな世帯臭で中和したかのような控え目なたたずまい。彼女は、頭の軽そうな女子高生たちとは明らかに異次元の女性だった。
〈はぁー、上品で綺麗な人だなー。俺なんか一生、縁がない世界の人だよな。彼女の目当ては……、ボーカルで決まりか。あいつ、どことなく若いときのリチャード・ギアに似てるもんな。それに、演奏は無茶苦茶だけど、歌は決して悪くない。いや、ひょっとしたら二人は恋人同士か?〉
誠二が想像を巡らすたびに、彼が彼女を見るまなざしも熱を帯びていく。と、その瞬間であった。
――誠二、働くことはそんなにぶざま?――
<え!? なんだ今のは? 誰か、呼んだか?>
誠二は、その声が鼓膜にではなく、脳に直接届いたように感じた。当然、幻聴なのかと訝(いぶか) ったが、腕がぐいっと引っ張られて、その思考はせき止められた。
「ねえねえ。あのボーカル、お兄さんにそっくりね」
誠二は、つい今しがたまで商談をしていた女子高生がまだ隣にいることに気付き、慌てて言葉を返した。
「え? 似てるかい?」
「うん、似てる、似てる。じゃあ、お兄さん、私行くわよ」
リチャード・ギアに似ているボーカルに似ている。それは誉め言葉なのか。喜んでいいものかどうか、複雑な心境で誠二は言った。
「あ、ああ。気をつけて帰るんだよ、えーと……」
「ヨーコ」
そう言うと、彼女は無邪気に微笑(ほほえ) んだ。
「ヨーコちゃん、こんな時間にこんな街をうろうろするのはこれで最後にするんだよ」
「はーい!」
ヨーコは両手を振ると、バンドの音をさえぎるように、耳を塞ぎながら人ごみの中に走り去って行った。
誠二は、ヨーコと共に過ごしたわずかな時間に軽い恍惚感を覚えながら、先ほどまで傘代わりにしていたまだ乾き切っていないカバンを開けて中に手を入れた。変色したボロボロの財布を探り当て、それを手に取り、切符を買おうと中を開けたが、次の瞬間、思わず大声を上げた。
「ない! 金がない!」
誠二の叫びは雑踏に吸い込まれたが、消えてしまったのは彼の声だけではなかった。誠二の財布からは一枚しかなかった一万円札ばかりか、硬貨までもが姿を消していた。
〈どういうことだ……。誰かにすられたのか? い、いや、財布はずっとこのカバンの中にあった。財布ごと抜き取るならともかく、カバンの中から財布を出し、金を抜き出して、また財布をカバンの中に戻しておく。どんなスリだってそんな神業は不可能だ……〉
誠二は狐につままれた気分だったが、二十秒、三十秒と経過するうちに、これは受け入れがたい虚構ではなく、受け入れてしかるべき現実であることに気付いた。
唐突に財布から金が消える。このこと自体は受け入れがたい超常現象だ。だが、たった今、誠二は全財産をはたいてヨーコから買い物をしたばかりだ。すなわち、財布に金がないのはまったくもって自然な現象である。むしろ、金が残っているほうがおかしい。
〈きっと、預金残高もゼロになっているだろう……。となると、ヨーコのモノも期待できるってことか〉
忽然(こつぜん) と金が消えた空っぽの財布が、誠二の心の中に一滴残っていた猜疑心を拭い去り、彼は高揚感に包まれた。
誠二は、二駅分の距離を足早に歩くと、そこから定期で家路についた。
