シルバーボックス
無限ループ
第五話
「西城、客先の要望が変わった。設計書を書いたからこのとおりに開発してくれ」
その設計書を受け取った誠二は愕然とした。
「あの……、課長。これ、設計が全然変わってしまっています」
「だから客先の要望と言っただろう」
課長は威圧的に誠二を見下ろした。
「しかし、これではこの一ヵ月の作業がパーです。プログラムを一から開発し直さなければなりません」
「大丈夫。納期は三ヵ月先だ。頑張れば間に合う」
「三ヵ月後!? それでは当初の納期となにも変わっていません。徒労に終わったこの一ヵ月、いえ、せめてその半分の二週間、客先に納期の延長を交渉していただくことはできませんか?」
誠二は、思わず椅子から立ち上がって課長に懇願した。だが、そんな誠二にお構いなしに課長は怒声を浴びせた。
「やかましい! お前らプログラマーは俺の設計書どおりに不眠不休でキーボードを打ちまくっていればいいんだ。とにかく納期にはきっちり間に合わせろよ!」
そう言って課長は踵(きびす) を返すと、自分の席に戻って机の上に足を放り投げた。
「いくらなんでも、あの言い草はないだろう!」
誠二が怒るのももっともだ。客先の要望が途中で変わるのはプログラムの世界では常識である。最初からそれを想定して設計しておけば、これまでの作業がすべて無駄になることはなかった。課長は、この手の設計ミスの常習犯であった。そして、その尻拭いをさせられるのはいつも誠二たちプログラマーだ。
「あいつには学習能力ってものがないのか!」
押入れの前で目を閉じて胸くそ悪い課長とのやり取りを反芻(はんすう) していたら、数時間前に彼に対して芽生えた怒りが実にリアルな感情として誠二の脳内で再現された。
「畜生! 無能な課長め!」
誠二の顔がみるみる紅潮する。
〈まだだ。まだまだ怒れる〉
顔の赤味が一段と増す。
〈もう少し。……。そろそろか!? 〉
頬の筋肉が痙攣(けいれん) を始めた。
「今だ!」
誠二は目を見開いて叫ぶと、銀色の箱の上に掌(てのひら) を置いた。箱の上の液晶パネルには「90 」と表示され、次の瞬間、押入れの中に現金が現れた。
「おいおい、マジかよ。本当に金が出てきたぞ……」
ヨーコの説明に嘘はなかった。むしろ、ヨーコの説明どおりのことが現実に起きたがために、誠二は平静さを失いかけていた。そのために、現象は一瞬だったが、激しさを増す動悸を抑えながらの現金の確認には多少の時間を要した。
一万円札が百八十枚。そのほかに、数枚の千円札と硬貨が二十枚ほど。誠二は、万札だけをもう一度数え、同じ結果を得て正確な金額を認識した。
「百八十万円か。怒りの度合いを示すパネル表示は90 パーセントだったから、課長の全財産は約二百万円……」
紙切れを数える単調作業を終え、落ち着きを取り戻した誠二は心の中で呟いた。
〈二百万って……、役職者の割には思ったよりも少ないな。それより、本当に使ってしまった……。今、課長の手元に残っているのはたったの二十万。これを知ったら課長、どう思うだろう? なんたって、百八十万もの大金が突然煙のように消えたんだから……〉
そこで誠二は空咳を一つして思案を続けた。
〈それはともかく、この箱は凄い。予想をはるかに上回る凄さだ……〉
自分を不快にさせた相手の顔と言動を思い起こしながら箱に掌を乗せるだけで、相手の財産の一部が、場合によってはすべてが自分の押入れに現れる。誠二を怒らせれば怒らせるほど、怒りに比例してその度合いをパーセントで示す液晶パネルの数字は高くなり、より多くの現金が誠二に舞い込んでくる。逆に、相手の大切な財産はより多く目減りする。
「確かに公平なルールだ。しかも、俺の仕業とばれる心配は絶対にない。これは完璧かつ、考えうる最高の復讐だ」
二時間前にたったの五万円で買った箱のおかげで、たちまち百八十万円を手に入れた。三十六倍のリターンだ。だが、そのときの誠二を支配していた感情は、喜びとは異質のものだった。戦慄と恐怖と脅威が一度に押し寄せたかのような情動。汗ばんだ背中に張り付くシャツに不快感を覚え、心臓が鈍痛に襲われた。
その夜は眠れないであろうことを自覚しながら、とりあえず電気を暗くして布団に横になると、豆電球が供給する小さな暖色の明かりに照らされて、押入れからのなまめかしい銀色の反射が網膜の上で揺らいだ。
その刺激の中、誠二はその箱を「シルバーボックス」と名付けることにした。
やがて、睡魔に襲われた。
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